代理人の語学力は?

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

天野氏が『奇譚クラブ』に黒田史朗の筆名で登場し始めたのは、やっと三十三年以降のことである。つまり、それ以前は同誌の読者にすぎず、寄稿家ではなかったのだ。

その天野氏が、判事補の倉田氏と、どこでどうやって知り合えたのか。右のインタビューによれば「文通を通じて知り合った」というが、吉田社長が名もない読者同士を結びつける月下氷人の役目を引き受けていたなどとは、聞いたこともない。

右の推論は、倉田氏が、『奇譚クラブ』の寄稿家でなかったと仮定しての話である。しかしながら、昭和二十八年頃から同誌に『マゾヒズムの手帖より』を連載していた沼正三が倉田氏だとすれば、二人の間に文通が始まったとしても不思議はないのだ。

いや、`あるいは天野氏は「『手帖』も私が書いた」と言い張るかもしれない。しかし、天野氏は『ヤプー』の作者ではあり得ないこと以上に、『手帖』の作者ではあり得ないのである。

正直に申し上げるなら、小説としての『ヤプー』もさることながら、『手帖』こそ、後世に残る学術的大名著であり、沼正三の名は『ブリタニカ』に入れられるだろうとさえ私は考えている。

フロイト、ヒルシュフルト、ヴルフェン、ブロホなど、十九世紀以前に性をテーマに名著をものした研究者は、いずれも「患者をみる医師」または「対象を調査する心理学者」の立場に終始しており、「沼正三」が拙宅で一夜にして読破した『女天下』にしても同様である。今世紀に入ってからも、ヨアヒム・バウリイやその後輩にあたるフリードリヒ・テーレンが「書誌学者」ないしは「分類学者」にすぎないことは、「沼正三」がハンブルクから私に書いて寄越した通りである。

しかるに『手帖』はといえば、確立された個性、研ぎすまされた感性が主体となっており、そこには、冷徹なる判断力と非凡なる分析力とそして無類の語学力が裏打ちされている。まことに僭越な言い方ながら、これだけのものを天野氏がお書きになったとは、到底考えられないのである。

たとえば語学力。都市出版社の矢牧社長から聞いた話では、こんなこともあったという。

『家畜人ヤプー』単行本化の権利を得た都市出版社では、にわかに天野氏のドイツ語の素養が気になり出した。当時の関係者は誰も、沼正三の代理人を自称する天野氏が沼正三本人かもしれない、と思ってもみたのだが、ドイツ語に堪能な人物でなければ書けない『ヤプー』であってみれば、天野氏の語学力に興味を覚えたとしても不思議ではない。

矢牧氏らは、ある高名なドイツ文学者と天野氏をさる酒席に招いて、天野氏のドイツ語をテストしようとした。さすがにそのドイツ文学者は気がとがめたか、実際にはテストは敢行されなかったという話なのだが・・・・・・。ことほどさように、天野氏の語学力は「あやふや」だったというエピソードである。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)12月号:「家畜人ヤプー」事件 第二弾!倉田卓次判事への公開質問状:森下小太郎・・・連載24】に続く