原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

私は本来マゾヒストである

私は本来マゾヒストである。前記のサジスチックな経験とはきわめて矛盾するようだが、このこととの関連については後で述べる。数年後、中学生の年ごろになったころ、よく愚鈍な少年を装って、年下の少年になぶられていじめられることを最も快とする習慣を身につけるようになった。私を獲物として、私をなぐりつけることのうち相手は昂奮度を増し、そのまま殺されてしまうのではないかというような体験を私は幾度も繰り返すようになっていた。そのとき、私の内部に、以前の、小学生の時のあの記憶が追体験としてよみがえるのを常に意識した。弱者に対しての、いわれなき暴力でのその制圧と破壊の衝動がもたらすいいようのない狂気が、彼を一種のオルガスムスに導いていることが、私自身の追体験を彼の内部に再生させ、ひとりでにふくれ上っていくことで、私の受ける理不尽な苦痛を媒体として確認できる気がした。

あの少年たちの、理不尽な、一種狂的な酩酊状態に誘うオルガスムスこそ、首切り少年の犯行を引き起した元凶であろうと私は理解する。

あのサジスチックなオルガスムスが、性への過渡的前期症状であり、それが時を経て子宮内で爆発する結果を先験する予兆であるとするならば、首切り少年とてこの範囲においてはまさしくノーマルの部類にはいることになるのではなかろうか。さりとて、首切り少年をその時点だけに限定して見た場合、明らかに彼はアブノーマルといえる。彼の射精へのエネルギーは、その時点において、行方を見定め得ず無目的に、我と我が内部の心層の奥に、無限にこだまし合う Why? Why? の狂気の声を、ついに子宮と結びつけ得ないからである。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く