原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

正常とはいったい何であろう。異常とはいったい何であろう。

しかし、問題はここでは終らない。もう一度繰り返す、正常とはいったい何であろう。異常とはいったい何であろう。「生殖に至る性行為」と限定して、問題はそれですべて片がつくのか?否と識者はいう。暴行魔がノーマルなはずはない、サジズムが自慰や中絶や避妊具使用よりノーマルであるはずはない。最終的に子宮内で発射することの合目的性だけがすべてではない。要はそれに至る手段であると。目的だけではなく、手段こそ検討されねばならない、とする立場を、若いイギリスの評論家コリン・ウィルソンは説く。結局はサジストも暴行魔も、その至る手段においてアブノーマルという、つまりは元々の道徳主義的規範の範囲に呼び戻されるという回り道をすることで落着するのである。落着ということは、つじつまがあうということである。つじつまが合うということは、おなじみのごとく、人間肯定の結論がすでにおなじみのとおりに準備されていての論証であることでつじつまが合う、ということである。「子宮内での爆発」という事象より、オルガスムスそのものを重要視しようと、オルガスムスが直接にしろ間接にしろ、「子宮」と無間係であり得ない限りにおいて、生殖にかわる新しいオルガスムス主義に人間快楽の回復を見つけようとする立場も、結局つじつまの合った、めでたしめでたしの、ハピーエンドとなることで、「子宮を目ざす生殖」に性を規定する従来の立場と結果的に変りがないのである。

ただ、一つの逆説を述べることでもって、人間肯定の正義の道に、参加する者であることに変りはないとの、自己証明をなすにすぎない。サジストはアブノーマルである。アブノーマルこそ最もノーマルだ、これが人間本然の姿だ、という逆説を用いることで、やはり参加者の陣列に加わるのである。アブノーマルの旗を高く掲げ、ノーマルを揶揄しながら、こちらこそ本当はノーマルだ、という立場である。サド侯爵も、そういう意味では確かに参加者の一人であった。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く