原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

もともとサジズムとは、人間生理の原型であろう

もともとサジズムとは、人間生理の原型であろう。本然のエネルギーと、フロイドいうところのリビドーと、権力志向への意志とが知的操作を媒体として意志的に統御され発展せしめられたとき、サジズムは生れる。真にアブノーマルであるには、単に暴行魔であり、単にサジストであることではなく、知的操作と意志的統御と、そして加えるに人間肯定の基盤がなくてはならない。それが真に快楽的オルガスムスを回復するのであり、回復することによって参加者となる。それはまたいってみれば、「子宮回復」への道ともなる。「子宮内での最も猛烈な爆発」への意志がサジズムにうかがわれ、こうして裏切りがなされる。アブノーマルへの裏切りである。

アブノーマルの基盤は「子宮からの断絶」の全的な実現を目ざすものであるはずだからである。体制破壊を指向し、そして建設という名の体制作りに還る革命理論は健全無比であり最もよりノーマルといえるだろう。

サド侯爵が試みた全能的権力の具現が、実際日常性の中ではまったく不可能であり、それは権力と権力の相殺作用の連鎖反応による権力否定の理念を生むという弁護でノーマルの座に還るとき、ここに初めてマゾヒズムという名の奇妙な世界が立場を得てくる。それは終局においてもアブノーマルを裏切ることがない。人間人肯定のノーマル性とハッキリ袂をわかち、完全に引力圏外に飛び出してしまった不参加者の栄光を最後までにないつづける。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く