原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

「ヤプー」の作者、沼正三氏が何人であるか、このことについて多くを語れないのが残念である

性の解放は、実に通俗性からの解放にほかならない。現象上氾濫せるサド、マゾ、ホモ、レスボス等の各異常性愛と、熟語と、風俗と、そのすべての何とノーマルなことか。衝撃的セクスといいつつ、その衝撃性とやらすらが見事にショ-化され、観光化され、元禄太平をことほぐノーマル性への収斂作用として子宮主義、ひいては家族主義、愛国主義的土壌固めへの役割の中へ馴化される過程の中でアブノーマルはノーマル性への踏絵を踏むことになる。人間解体は、解体されずにかえって倨傲な居直りをもたらすことになり、現実的には、こうした多くの倨傲な居直り家たちを輩出させる結果となった。

アブノーマルとは、全的な人間解体を通じて、こういう倨傲な居直りからも全的に自由でいられる立場であらねばならない。「ヤプー」における人間解体は、完全な個の解体と同時に、祖国の解体、民族の解体、そして人間一般の解体へと徹底化された。それは”とらわれ”からの解放であり、その地点からの大展望はそのために広潤と開けて、宇宙的な視野を提供することになる。その展望を読者はこの「ヤプー」においてながめていただきたい。

ただ残念なのは、この限られた解説文の中では、最も肝要な”女性サジズム”についてのより綿密な考証がなし得られないことである。その性格を一般的男性サドのそれと対比して、分析的考証がなし得られれば、それが同時にマゾのより分祈的な解答をもたらすことになる。いずれ次の機会にでもそれを果したい。

なお、「ヤプー」の作者、沼正三氏が何人であるか、このことについて多くを語れないのが残念である。沼氏を巡っては幾つかの伝説があり、彼の正体は不明である。この隠れた偉大な才能の持主と、ふとしたことから知遇を得ることができた幸運を感謝するばかりである。いずれ時期が来るまで沼氏を覆面のまま伏せておかねばならないことは、いちばん筆者にとっても残念である。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・了