倉田卓次(東京高等裁判所裁判官):週刊文春(昭和57年 10月14日号)より

倉田卓次(東京高等裁判所裁判官):週刊文春(昭和57年 10月14日号)より

”幻の作者”作戦成功す

ある程度、売れる予想はついた。だが、どうせ出すからにはベストセラーにしたい、”出版プロデューサー”として私は、今度は『ヤプー』の売り出し作戦にとり組むことになった。

とりあえず、”幻の作者”で売るのが一番手っ取り早い、それが、結論だった。私はことあるごとに”幻の作者”沼正三をマスコミにアピールし、マスコミの方は、実にたくさんの”作者”を探し出してくれた。後に『日本人とユダヤ人』を書いたイザヤ・ベンダサンが架空の人物で、その作者探しがマスコミを賑わせたが、ヤプーの場合は、スケールが違っていた。

まず、名指されたのが、三島由紀夫さん。これはおかしかった。非凡な構想力、文章力からみて三島さんでもおかしくない。正統な白分の作品系列に入れるのがイヤだから変名で発表し、三島さんは、作者探しの騒ぎを秘かに楽しんでいるのだというまことしやかな説だった。

もちろん、沼正三は三島さんではない。三島さんは、そう言われるのを非常に嫌がったものだ。

「康クン、ボクじゃないことを発表してくれよ。困るなあ・・・・・・」

三島さんは、そう言って嘆いた。

文章のペダントリィから、渋沢竜彦氏も沼正三に擬せられた。奥野健男説、武田泰淳説。ケッサクだったのは、その黄色人種コンプレックスから、京大の会田雄二教授説まで流れたことだ。

そして最後に出てきたのが、代理人と称する天野哲夫氏自身が、沼正三に違いないという説。実は正確に言うとこれも違うのだが、私は徹底的にこの説をあおった。マスコミからインタピューを受けた場合、天野氏は自分がマゾヒストであることをハッキリと言う。同好の士として沼正三と知り合い、出版の代理人としてすぺてをまかされたと。そして話の最中に、自分と沼正三を故意にとり違えてみせる---これが私の考えた手である。案の定、マスコミはコロッとこの手に引っかかってきたというわけだ。

ある記者は、そのインタピューの模様をこんなふうに書いている。

---ある編集者が、「天野にはあの小説は書けやせん」と言っていたという話をすると、天野氏は言下に「そんなことはない」と言う。そのくせ、「じゃあ、あなたが沼正三ですね」と突っ込むと、あわてて否定する。支離減裂であった---

支離滅裂は当然である。わざと混乱させるためにやった芝居なのだから。

天野氏が杉並に住んでいたところから、沼正三の沼は天沼の”沼”からとったのであるなどという、うがち過ぎた説を成す評論家まで出てきたのには、むしろこちらの方が驚いてしまった。

さらに、ほんとうは沼正三は、すでに死亡しているのだ。それで私と天野氏が、まるで沼が生きているかのようにデッチあげ、沼の遺産を横取りしようとする、これは陰謀だなどという荒唐無稽な説まで出て来る始末だった。

内容もさることながら、この”作者探し”騒ぎで、『ヤプー』の初版七千部は、たちまち売り切れ、あっという間に三万部を越えてしまった。私の作戦は大成功だった。