『血と薔薇』1969.No4

『血と薔薇』1969.No4
エロティシズムと衝撃の綜合研究誌

特集=生きているマゾヒズム より「いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート」:平岡正明(wikipedia)

※1969年2月、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任者として『血と薔薇』第4号(天声出版)を編集

◆いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・(連載2)

ところで、全七項目からなる『血と薔薇』宣言の第三項にこうある。

「血とは、敵を峻別するものであると同時に、彼我を合一せしめるものであり、性を分化するものであると同時に、両性を融和せしめるものである。薔薇とは、この決して凝固しない血を流しつづける傷口にも似た、対立と融合におけるエロス的情況を象徴するものである。(以下略)」

のびてちぢんでまたのびて、ちぢんでのびてまたのびるというコマーシャルをおもいだしてほしい。宣言の弁証法をコマーシャルに比定するとは《チとうバラにしやがって!》と腹をたてるむきもあろうが、それはこういうことなのである。血は、のびたりちぢんだりするが、どちらかといえば---ということはほうっておけばということだ---彼我を合一へとみちびく求心的な、ちぢんでいくタームである傾向を有する。

血を、液体---固体---気体の系列に沿って内省する方法の、中間的な結論はこうである。第一に、語彙の数からも、第二に、「血の海」にしめされる液体としての血のイメージの上限からも、液体たる血は、固体にひきよせられる傾向をもつ。

おそらく、血にまつわる表現をもって人間関係をあらわし、しかも敵を峻別するのではなく彼我の合一をあらわしている語が、多くを数えるという理由は、液体たる血が凝固し、求心的に動きやすいという日本人の血の意識に対応するのだ。血肉の交り、血縁、血族、血すじ、血統、混血、血書、血判、血のつながり、など。これらは集団を組織する原理や、かつて血と乳はおなじものだったのかもしれないことをおもわせる。

これとは逆の位置で、血にまつわるタームをもって敵を峻別する表現があるが、それは語自体が敵との峻別をあらわすよりも、集団から離脱する個人の心情を血に仮託するかたちであらわれる。血まつり、血ばしる、頭に血がのぼる、血を見る、血の気が多い、血気、血も涙もない、血で血を洗う、出血大サービス、など。これらは比喩であり、イディオムであって、血わかれとか血離れとか血切れるという語は成立していない。

以上の考察から、のびたりちぢんだり、峻別したり合一したり、噴出と圧縮、気化と粘着、浄化とけがれ、死と再生、解放と執念、陽気さと暗さ、などの日本人の血の意識の二面感情を、しかも二面感情がひきさかれるまでに緊張したときにとびだしてくる血のイメージをとらえる統一の原理があるとすれば、それは、日本人の血の意識とは、ここらへんで外国語を使わせていただくなら、《ダメー血》と《ボルテー血》であるということができる。

さて、さきに省略した『血と薔薇』宣言第三項の後半はこうである。

「本来、エロスの運動は恣意的かつ遍在的であるから、エロティシズムは何ら体系や理想を志すものではないが、階級的・人種的その他、あらゆる分化対立を同一平面上に解体・均等化するものは、エロティシズムにほかならないと私たちは考える」

俺はそうは考えない。エロティシズムは階級的ないし人種的対立を激化させる。エロティシズムをまずエロチックなイメージを心にもった状態と考えれば、それは恣意的にして無差別にあらわれるけれども、なおかつ現にある分化対立を薄明なものから非和解的なものにまで鋭くすること、エロティシズムがわれわれをひきさくものであることはほとんど経験的な事実といえないか。エロティシズムがタブーの意識を激化する。すこしうまナぎる例を引いてみよう。うますぎるというのは、人種対立、階級対立、しかも牢獄のなか、証言者が強姦専門あがりの黒豹(ブラック・パンサー)党情宣部長エルドリッヂ・クリーヴァーで、邦訳が出たばかりという条件がそろいすぎているからだ。

死の儀式は必要とする

街灯の下でふるわれる鉄拳を

張リ裂けた地面から突き出す刃物を

さあ黒いダダのニヒリズムよ

白い娘を 犯せ

その父親たちを犯せ

母親たちの喉をカッ切れ

わたしはこの詩の幾行かを地で行った。そしてもし捕まらなければ何人かの白い喉をカッ切っただろうということを知っている。もちろん今この瞬間、外ではたくさんの若い黒人が白い喉をカッ切り、白い娘を犯している。彼らがそうするのは、いくらかの批評家が信じているようにリロイ・ジョーンズの詩を読んだからではない。むしろリロイは、ふつうなら目につかない人生の事実に表現を与えているにすぎないのだ。

(武藤一羊 訳「氷の上の魂」)

一九六五年六月二十五日、カリフォルニア州フォルサム刑務所発の手紙「なることについて」で、クリーヴァーは、モーピィ・ディックのような白人女の肉体が、アメリカ黒人の男にとって精神病理的現象をひきおこすことを証言している。クリーヴァーが、白人女の肉体こそ白いアメリカの価値のやわらかい中枢であると気づくのは、恣意的かつ遍在的なエロスの運動を通じて、わずか一枚の白人女のピンナップに対して黒人の男が気をヤルことも禁じられているのだと思い知らされてからであった。

「監禁状態に耐える過程で、わたしはピンナップを手に入れて、わたしの房の壁に張っておくことにした。わたしは彼女と恋に落ち、わたしの愛情をあらんかぎり彼女に浴びせかけるのだった。彼女は女性という禁じられた種族の代表であって、釈放されるまでわたしを支えてくれそうに思われた。『エスクァイア』誌の真ん中から切り抜いた豊満な花嫁とわたしは結婚した」

このピンナップが看守によってはぎとられる。黒人女のピンナップならいいんだぜ---なんだとこの白豚野郎云々のひどい会話がつづけられて、はたして、クリーヴァーは分化対立を同一平面に解体・均等化するエロティシズムを信じるはずがない。

血のボルテージの相に沿っていえぱ、対立が存在するところではすべてが対立を激化させるために利用されることが正しく、すべて和解のための理論を粉砕しなければならない。エロティシズムとは一つの襲撃である。

血のタームは凝固しようとする傾きを有する。エロティシズムは攻撃の様相であらわれる。これを逆転して、凝固しない血と、対立分化を同一平面上に解体してしまうような領域をもとめるなら、それはマゾヒズムのことだ。「決して凝固しない血を流しつづける傷ロにも似た」薔薇。

これはてんでマゾな象徴にみえる。マゾヒズムがエロティシズムの一下位分であるのか変種であるのかわからないが、対立の解体ということでは、それは沈黙にひとしい。

・・・次号更新【いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・連載3】に続く