「カシアス・クレイ対フォスター、世界ヘヴィー級タイトルマッチ」プロモート

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◆異相の呼び屋・康芳夫:なぜ、康芳夫は自らペテン師になったか

「欺してごめん」安部譲二(クレスト社・1993・12)

与太高から東大、そして呼び屋へ

「兄貴、康さんを知っておられるでしょう」

私の依然の舎弟で、今出も渡世に励んでいる男が、ホテルの宴会場の人混みの中を縫うようにして近づいてくると、そう訊いたのは、昭和六十一年の晩秋のことだった。初めての単行本が好調に売れたので、版元の出版社が全国的に協力してくれて、「安部譲二の再出発を祝う会」というのをやった時のことだ。

永く暗黒街に棲んだ私の祝いなので、版元が以前の業界の者も招いたら・・・・・・と言ってくれたから、三五〇人の招待者のうち五〇人はヤクザという、珍しい会になった。出版関係の人たちや作家と、刀傷の光る指の欠けた渡世人が、和やかに語り合ってる中に、私が現役の頃、右腕として手下の筆頭を務めていたこの男も、嬉しそうな顔で混ざっていたのだ。

康って、あの東大を出たっていう変わった顔の男かい。そいつだったら知合いというより顔見知り程度のことだが、なぜ・・・・・・」

康芳夫の滅多にはいない異相を思い出した私が、怪訝な顔で訊いたら、元舎弟は、

「その康さんに、いろいろ仕事をもらったり、付き合ってもらったりしてるんです。自分が兄貴の舎弟だったと何かの時に言ったら、それから目を掛けてもらうようになりました」

祝いの酒でいい色になった顔をほころばせると、そう言ったのだ。ヤクザの兄貴や親方になって子分を養うようになると、こんな後援者の旦那がいなければ、とてもやってはいけない。

康芳夫は、「安部さんなら、よく知っている」と、元舎弟に言ったそうだが、何度かそれまでに顔がついて、挨拶ぐらいはしたことがあったのだが、よく知ってる・・・・・・というほどの仲ではなかった。

もっとも私がある頃から、この康芳夫に興味を持って、知識を増やしたように、相手も同じようにしていたというのならわかる。私は康芳夫を、よく知っているほうだと、自分で思っていた。

いずれにしても、私が足を洗った後、舎弟だったと聴いて私の元右腕の旦那になってくれたというのだから、どこかで出喰わした時には礼を言わなければならない。

「確か康芳夫は、俺と同じ昭和十二年生まれで、誕生日も二、三日違うだけだ。それに出た高校が俺は保善で、あいつは海城だから隣り同士と、こじつけだけど重なるところが多いんだな」

そんなことを、私は元舎弟に話したのだが、康芳夫は中国籍で、高校も当り前の歳に卒業したのに、私は丸四年遅れて二十二歳の終わりにやっと保善高校の定時制を了えたのだから、あまりに重なりはしていない。

当時のあんな与太高校で、それも番長格を張っていたというのに、これは正直に言うと舌を捲いたのだが、康芳夫は東大に入って卒業したというのだ。

康芳夫が高校生の頃、新宿でゴロツキをしていた男に当時のことを聞いたら、

「あのライオン丸みてえな中国人な、可愛げのない学生でよ、皮で張ったような面で泣きも笑いもしねえから、薄気味の悪い小僧だったぜ」

と、一度見たらけっして忘れも人違いもしない顔だから、よく覚えているが、渋太くて悪い若造だったと言ったのだ。

けっして康芳夫は勉強ばかりしていた高校生ではない。ハッキリ言えば、程度のあまり高くない・・・・・・と言うよりむしろ、当時の海城は水準以下の高校だった。

それが東大に入ったのだから、これは普通のことではないと、同じ時代に東京で育った私には、よく分かるのだ。

昭和四十四年の終わり頃になって、私が急に康芳夫に興味を持ったのも、下地にこんなことを知っていたからだと思う。

あれほど変わった男だから、一面識もない頃から噂だけはよく耳にした。

海城の与太学生が東大に入ったというだけでも噂になるのに、卒業すると、その当時呼び屋として脚光を浴びていた神彰の協力者になったというので、いやがうえにも評判になった。

呼び屋と言えば興行師で、堅気よりヤクザに近い職業だから、東大の新卒が就職するようなところではない。興行の世界は、誰がどんな綺麗事を言おうが、暗黒街と密着している。

たとえば映画やテレビのロケひとつにしても、野外ロケの時には地元のヤクザと渡りをつけなければ、撮影がどうにもスムースにはいかない。ちゃんと地元の縄張り(シマ)持ちに挨拶しておかなければ、たちまち通行人の振りをしたチンピラが「本番ッ」の助監督の声が響くと、どこからともなく現れる。

「スタートッ」

カチンコが鳴って本番の撮影が始まると、異様な風体のチンピラが奇声をあげて飛び出して来る。天下の往来だから警察だって、そう簡単に捕まえるわけにはいかない。

撮影ひとつに絞っても、ヤクザの協力は不可欠なのだ。

私たちが若い者の頃は、本番で奇声をあげてカメラの前に飛び出すなんて、そんなことより、もっと凄いことをやった。

掌にタップリとバターを盛りあげておいて、いきなりカメラのレンズに塗りつけてしまうと、これでほぼその日の撮影はオジャンになる。レンズに塗りたくられたバターは、ちょっとやそっとでは落ちるものではない。

やった私たちは、見物の人混みにサッサと紛れてしまう。こんなことでいちいち捕まって、威力業務妨害なんて喰らっていたのでは、それこそ身体がいくつあっても足りない。

ヤクザは興行の切符も売り捌くし、場内の警備だってお巡りさんやガードマンより手慣れている。どう時代が変わっても、興行師とヤクザは仲間なのだ。

神彰は女流作家の有吉佐和子の亭主で、それまで誰も手をつけなかったソビエトのドン・コサック合唱団や、ボリショイ・サーカスを呼んで大成功を収めた。その当時、日の出の勢いだった興行師だ。

渋谷の安藤組の最末端のチンピラだったその頃の私は、まだ見たこともない康芳夫を、所詮は堅気と見下しながらも、同年輩ということもあって、すいぶん意識していたように思う。

ありていに言えば、噂の高い康芳夫が、東大を卒業すると地味な会社ではなく、派手で時流に乗った興行師の協力者になったと聴いて、私は妬ましくて堪らなかったのに違いない。

あれは昭和四十三年だったと思うが、神彰と別れた康芳夫は独立して出版を始めると、最初に『池田大作を裁く』というセンセーショナルな本を出して、これがよく売れた。

そして『松下幸之助を裁く』『宮本顕治を裁く』といった本を次々と出版したのを知った私は、「味を占めて調子に乗って、皇室や右翼、それに自民党の政治屋をやったりすると、あの小僧、キャンという目に遭わされるぞ」

と、ほくそ笑んで楽しみに思ったことを、気取らずに白状しておく。この調子でやっていると、遅かれ早かれタブーに触れて、大怪我をすると思ったのだが、なかなかそんなことにはならなかったので、私は、とてもつならなくガッカリしたものだ。

それからしばらく康芳夫の噂は途絶え、私もやっとヤクザとして芽が出ると、忙しくなった。

・・・・・・・・・次号更新【異相は、笑っても異相】に続く