『血と薔薇』エロティシズムと残酷の綜合研究誌

『血と薔薇』
エロティシズムと残酷の綜合研究誌
澁澤龍彦 責任編集
創刊号 Oct.1968No.1

All Japanese are perverse

三島由紀夫

私の耳にはこの言葉がいつまでも残ってゐる。なるほど日本の伝統文化には、官能の多様性はみごとに鏤められてゐる。しかし、それを分析するとなると、日本人はいつも間違ふ。日本人ぐらゐ性の自己分析の不得手な国民はなからう。それは又一般的自己分析のあいまいさといふ国民的特色と相俟ってゐる。

その一つの根本的理由として、私は日本人のニ元論的思考の薄弱を挙げてよいと思ふ。性は相手(人間であれ、動物であれ、観念であれ、物象であれ)の要るものであるが、自と他の関係・対立の力学(ダイナミクス)が、日本人の思考にも感情生活にも欠けてゐることは、いまさら社会学的分析に拠るまでもない。

人問の結ぶ性的関係は、獣姦のやうな特殊なものを除き、一方、フェティシズムのやうな極度に観念的なものを含めつつ、

次の三種に分けてよからう。すなはち、第一に、異性愛の男女の関係、第二に、同性愛の同性同士の関係、第三に、サド・マゾヒズムのサディストとマゾヒストの関係である。もちろん、 この三種は心理的態様において、さまざまなニュアンスを以てお互ひに相渉ることはいふまでもないが、三種のいづれにもその本質的な核があって、この核を説明するのに、他種のアナロジーを以てするのはまちがった方法である。もちろんそれぞれの周辺には、あいまいな、相互のアナロジーで説明のつく分野もある。しかし本質的なものは、三種それぞれ全くお互ひに通じ合はぬ特殊言語の体系を持ってゐる。そしてそれを究明するには、二元論的な、又、相対主義的な思考能力なしには不可能なのである。

何故、この三種に分けるかといふと、この三種は、人間の社会集団のおそらくもっとも根元的な三種別の「関係」と照応してゐる、と考へられるからである。すなはち、第一種は生殖を基本にした社会秩序、第二種は同志的結合を基本にした戦闘集団、第三種は権力意志を基本にした支配・被支配関係と、それぞれ性欲を超克して相渉ってゐるからであり、この三種の社会関係は、相互に根本的に矛盾してゐる。しかも相互に浸透し合ってゐるといふところに問題の厄介さがあり、一人が三者を兼備することさへできるのである。

そしていかなる特殊な perverse も、エロスの最終的な具現としての、「世界の全体性との融和と結合」「自我の究極的滅却」といふ点において、あたかもヨーロッパの小都市のどんな小路も明るい広場(プラザ)へ導かれるやうに、同じ場所へ出て落合ふといふ発見は、ビンスワンガーなどの現存在分析 Daseinsanalyse の功績である。

・・・次号更新【All Japanese are perverse(三島由紀夫)・・・連載3】に続く