風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】

風俗奇譚 昭和45年7月臨時増刊号より

いまはやりのSF小説の先駆、気宇広大のマゾヒズム文学の金字塔とうたわれる『家畜人ヤプー』の著者はナゾの作家としてヴェールに包まれている。そのナゾときに体当たりする問題作!

嗚呼、沼正三よいずこ

『汐』の春季別冊号には、「沼正三」という名まえで、「人種的劣等感が生み出すもの」という記事がのっていた。「沼正三」という名まえの下に、(『家畜人ヤプー』の作家)とただしがきがしてあった。

ブタノがついにヌケヌケと沼正三になりかわって正体をあらわしたのである。

冒頭に永井荷風の『あめりか物語』をわざとらしく引用し、「マゾヒストとしての日本人」と「象徴としての皮膚の色」を書きあげた、おそまつきわまる論文である。

おそらく、『汐』編集部の担当者は、ブタノをまったく「沼正三」とおもいこんでしまったのだろう。

ケッサクなのは、東京新聞の文芸時評に、磯田光一が書いた論文(家畜として飼いならされたヤプーに、アメリカ占領軍下の日本人の姿を見る)を無邪気すぎる、と批判し、「私は普遍的な日本人の劣等感を追求した」と言及している点である。作者が、自分の作品の批評を再批評するのはケッコウだが、かんじんの『ヤプー』の後半にある奥野健男の解説は、磯田光一の論文と主旨は、い
っしょではないのか。今やタテの会隊長の三島由紀夫氏が、心境の変化で『ヤプー』を推せない、というのも、この磯田光一氏、奥野健男氏的な見かたがいっぽうにあるのではないか。

ブタノは、完全にシッポを出してしまったのである。

さらに、おいつめられたブタノは、「New Review」において、とんでもない「キベン」をまくしたてたのである。それは「『家畜陣ヤプー』代理人の証言」という記事で、筆者は、テンノ・ケツオ(マゾヒストQ)とされている。

これは、ブタノことテンノ(これはどうやら本名らしいのだが)が、どうしようもなくなってはきだした「キベン」集である。読者のみなさま、よく読んでください。

テンノは「猟奇的にエスカレートさがし」と題して、「作者さがしは無意味である」と言うのである。『ヤプー』が売れたのは、まさにテンノじしんが「ナゾの作者は誰か」とマスコミに売りこんだためではなかったか。

それが、「作者が誰であろうと、問題は作品それじしんにすべてがかかっていることだし作者は誰か!などのノゾキ趣味はよけいなことである」とヌケヌケと吐くとはどういうことか。

『ゲロチカ』に告白記を書き、フクメンしてテレビに出演し、『女性本人』の記者に私生活告白をしつづけてきた「ノゾカセ趣味」のテンノが、「いまさら「ノゾキ趣味はよけいなこと」とはなにごとであるか。

そしてなお、「沼正三は現存している」と絶叫(というより最後のアガキ)しているのである。

「沼正三は明らかに現存している。【沼正三というフィクション上の仮構された人物は明らかに生きている。もともと『ヤプー』のフィクションは、またひとつ沼正三という、フィクション上の人物を仮構することにおいて成立した」(【 】内筆者)

と書きつづっている。沼正三という仮構された人物が生きているのはあたりまえではないのか。そんなことをいえば、紫式部にしろ、シェークスピアにしろ、サド侯爵だって、まだ生きている。文学史上に名を残した無数の作家たちはみんな生きていることになるのではないか。

私が問題にしているのは、仮構された「沼正三」が生きているのではなくて、本物の沼正三が生きているか、どうかなのだ。さらに印税を得る権利をもつ、生身の沼正三が生きているか、どうかなのだ。

『ヤプー』を沼正三というペンネームの人間がかけば、『ヤプー』のフィクションが、その上に沼正三というフィクションをのせているのはしごく当然のことではないか。

テンノ氏のこの解説によると、「沼正三」というのはもともとペンネーム、つまり、ウソの名まえであり、『ヤプー』なる小説も「フィクション」つまりウソの話であるから、とどのつまり、「沼正三」が生存しようとしまいと、かまわない、ということになる。

テンノは、そのフィクションの上にさらにのりかかり、沼正三のフィクションをかっさらい、現実の「名誉」と「金銭」を得た男ではないのか。沼正三が、フィクション上のペンネームだから、そんなものは、のっとってもかまわない、という論法ではないか。

こんな乱暴な人間がいたら、いったい、著作権法なる法律は、どこへいってしまうのだろう。

テンノは、こうも書いている。

「沼正三は、最初から仮構されているフィクションの人格であり、フィクション上の人格はつまり存在しない」

存在しない人間が、なんで、小説がかけるのであろう。

ここで、テンノは、すでに沼正三が死んでしまっていることを告白してしまっているではないか。沼正三氏には、著作権をもつ奥さんや子ども、その他の血縁者がいないことをいいことに、みずから、沼正三の代理人と称して、その印税を奪っているのではないか。

そうとすれば、これは明らかに犯罪である。

さらにテンノが、代理人として吐いてしまっているのは、『続編・家畜人ヤプー』と沼正三の『或る夢想家の手帖』の出版である。

『手帖』のほうはそのままで若干の手をくわえて、『続編ヤプー』はテンノが執筆することは自明の理である。テンノは、永遠に沼正三の代理人と、二代目沼正三の二人一役を演じるハラなのである。

ちゃんちゃらおかしいのは、ここまで、すべてがばれていながら、『続編』と『手帖』が新たに出版されれば“沼正三死亡説”はあとかたもなく雲散してしまうと思う、と述懐していることである。

ジョーダンじゃない。二冊を出して、ボロもうけすることが、ブタノことテンノの、最初からの計画ではなかったか。それと同時に、あたかも、「広沢トラゾオ」二代目をつぐような気分で、「沼正三」二代目になりきることがテンノの夢だったはずである。

だから、『手帖』と『続編』が出れば、テンノの疑惑がさらに決定的になるのである。

すでに、存在しない沼正三の亡霊を墓場からひきずり出し、それを自分のかずかずのペンネームの最後の冠としてかぶろうとするテンノの計画は、犯罪であるばかりでなく、人格権上もゆるされるべきではあるまい。

「もともと人生はフィクションであり、世界もフィクションでなかろうか」

とひらきなおるテンノは、いま、まさしく現実の世の中で、現実の犯罪をおかしつづけている。

読者諸氏よ。これからも、沼正三の名まえでさまざまな著作がかかれていくであろう。しかし、その裏には、こんな事件があったということを忘れないでほしい。

沼正三なる名まえが消えるまで、沼正三事件は終わらないのである。小説「沼正三」もテンノが改心して、全面告白しないかぎり、いつまでも続くのである。

・・・次号更新【風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】:連載2】に続く