『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎

『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より

代理人・天野哲夫氏の登場

単行本化の話は、四十六年になって再び持ち上がる。ただし、今度は中公のような大手でなく、都市出版社という零細企業である。

結果的には、単行本『家畜人ヤプー』がこの都市出版社から世に出され、初めて”ヤプー・ブーム”ともいうべきセンセーションが巻き起こると同時に、筆者・沼正三の正体探しもますますさかんになるのだが、その前に、都市出版社の周辺に棲息する何人かの人物を紹介しておく必要がある。

『血と薔薇』という雑誌をご記憶だろうか。

澁澤龍彦を責任編集者に、三島由紀夫、種村季弘、堀内誠一らを編集顧問にし、”エロティシズムと残酷の綜合研究誌”と謳った季刊雑誌である。発行人は、有吉佐和子と束の間の結婚で話題をまいたこともあるプロモーター神彰。編集制作は、のちの都市出版社社長の矢牧一宏氏である。

その矢牧氏の話によれば、『家畜人ヤプー』は、『血と薔薇』のブレーン会議の折に三島由紀夫氏に掲載を勧められたとのことだった。沼正三の代理人・天野哲夫氏の存在も三島氏に教えられ、さっそく交渉がもたれた。

天野氏というのは、当時、新潮社の校閲部に籍をおいていた人で、彼と私は『奇譚クラブ』同人として旧知の間柄である。その天野氏は、どうやらすでにこの頃から、沼正三代理人として活躍していたらしい。

天野氏には、のちに何度もご登場願うとして、話を先に進めよう。

『家畜人ヤプー』を掲載する予定だった『血と薔薇』は、しかし残念ながら、やがて廃刊に追い込まれる。神彰と組んでいた矢牧氏は同社を飛び出し、友人や、詩人の田村隆一氏と都市出版社を興して、新たな季刊雑誌『都市』の刊行を始めた。しかし、始めたはいいが、雑誌だけではさっぱり商売にならない。

そこで矢牧氏は、単行本『家畜人ヤプー』の刊行に踏み切ったのである。

この『ヤプー』をめぐる何やら(秘)めいた話題に、のちにネス湖の探検を企てたりもしたプロモーター康芳夫氏が眼をつけたのは、至極当然の成りゆきではあった。彼はとにかく派手に宣伝すれば売れるだろうと、その宣伝プロモーターとして都市出版社の顧問となったのである。

刊行の折の問題は、実作者の承諾をとる必要があることであったが、矢牧氏によれば、その時も天野氏が、

「僕は沼氏から代理人指定を受けているから大丈夫。僕と沼氏とはこの通り手紙のやりとりをしています。著作権代理人は私で結構です」と沼氏の葉書を見せて断言するものだから、都市出版社としても躊躇する理由は見当たらない。いわゆる大手なら「何か本人の書いたものが必要だ」で突っぱねるところだろうが、資金繰りの忙しい弱小出版社としては致し方なかったのかもしれない。

いずれにせよ、『家畜人ヤプー』初版本はこうして誕生したのである。

その後、雑誌『都市』の別冊に『家畜人ヤプー』の続編が掲載された。しかし、この”続ヤプー”を読んだ人たちは驚いた。前の『ヤプー』とは違う、トーン・ダウンしている、というわけだ。私も、沼正三以外の誰か別人が書いているんじゃないかと思い、矢牧一宏氏に問い質してみた。

「沼正三の手書きの原稿があるのか」

「いや、原稿は天野君が書き写したものしかない。沼が筆跡を残したくないというので、天野君が代って書いたものなんだ」

という返事であった。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載7:天野=沼」という嘘】に続く