「ヤプー」を完成させてほしい

『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より

『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より

そういえば、この矢代氏も、生前は沼正三の代理人・天野哲夫のふるまいに眉をひそめていた一人である。一度『風俗奇譚』に「麻生保」の名で投書したこともある。

自分と沼との境遇が似ているせいか、矢代氏は、沼正三が己れの正体をひた隠しに隠すそのやり方については、一種の同情を覚えるらしかった。

沼が拙宅を訪れた折り、ドイツ語原書を一晩で読んでしまったことを語って聞かせたときも、

「フランス語なら僕にも一晩で読めるんだがなあ」

といったものである。フランスに留学し、名曲『ボレロ』の作曲者ラベルに師事した矢代氏にすれば、そのくらい訳なかったことだろう。そういう意味では、二人には共通するところが多かった。

共通するところが多かっただけに、矢代氏には、天野氏の行状が他人事ではなかったのだろう。『風俗奇譚』への投書には、天野氏への怒りがこもっていた。私には、彼の心情が理解できるような気がする。

誤解を避けるために重ねていう。

私がこの一文を記すのは、代理人と称して本物になりすました天野氏を告発するのが本旨ではない。

われわれが知らないところで、天野氏は沼正三と「代理人契約」を結んでいるかもしれないし、沼正三になりすましてもいいと許しをえていることも考えられる。天野氏は、印税やら原稿料やら、こっそりと沼正三に送りつけている可能性すらあるのだ。

都市出版社から出た単行本の版権料、角川書店から出た文庫本の版権料、その他もろもろ「沼正三」の名で書かれた(あえて天野氏が書いたとはいわないが)小品の原稿料など『ヤプー』のもたらした果実は少なくない。東映がその映画化を思い立ち、都市出版社から二百万円だかで映画化権を買ったこともある(これは東映側の都合で実現しなかった)。

これらの果実を、天野氏はすべて「沼正三」に手渡したのだろうか。あるいはまた「沼正三」は、それだけの収入を国税当局に報告しているのであろうか。

倉田氏にとって、経済的な保証は国家がみてくれているのだから、『ヤプー』のもたらす果実に固執する理由はない。むしろ、天野氏が奇態な行動を繰り返し、沼正三になりすましてくれる限りにおいて、己れは安全な場所に隠れていることができるのである。天野氏の行動は、見て見ぬふり、というのが本当のところであろう。

---しかしながら、幸か不幸か『家畜人ヤプー』の放つ文学作品としての輝きが強烈すぎた。

もしこれが、同好の士の劣情を刺激するだけの価値しか持たぬものであったなら、真の作者についての詮索などありえなかったにちがいない。

沼正三よ、『家畜人ヤプー』を是非とも完結させていただきたい。物書きのはしくれである私に敢えていわせてもらうなら、人を裁くことは、司法試験をパスできる人間なら誰にでもできる。しかし『家畜人ヤプー』の完成は、あなたでしかなし得ないのである。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載17:裁判長席に坐っていた”天才”】に続く