◆異相の呼び屋・康芳夫:なぜ、康芳夫は自らペテン師になったか
「欺してごめん」安部譲二(クレスト社・1993・12)
怪人独特の魔力
同じ四十八年に、石原慎太郎を隊長とする探検隊をスコットランドのネス湖に送って、怪獣ネッシーを捕まえるのだと、康芳夫は巨きな顔の下のほうについている赤く光った口でまくしたてたのだが、煙に捲かれて興奮したのは日本人だけだった。世界中の人が呆れかえって、眉をひそめたに違いないと、私は思ったものだ。
ついにネッシーを、掴まえもしなければ、存在だって確かめられず、まったくの無為に終わって、康芳夫は山師だと、これで定評が決まってしまった。
昭和五十一年に府中刑務所の独居房で週刊誌を見ていた私は、康芳夫がモハメッド・アリとアントニオ猪木を闘わせ、格闘技世界一決定戦なるものをプロモート、これが大変な話題となっていることを知った。
一時、私の血は再び逆流したが、結果は、終始アントニオ猪木がリングの上で足を上げて寝そべっているだけの駄戦で、ミッキー・ロークのボクシング以上の失笑を買うものだった。
ところが、それからひと月も経たないうちに、今度は、オリバーというどこから見ても猿にしか見えないものを、猿と人間の間の、それも人間に近い生物・人類猿だと、テレビ局に大金を出させて、どこからか連れてきたのを知って、私は唖然とすると同時に笑いが止まらず、看守に怒鳴り飛ばされてしまった。
この類人猿ではなく人類猿と称したオリバーについては、とてもおかしい後日談がある。
人類猿が日本に着くと、そこは宣伝上手な康芳夫のことだから、日本中が大騒ぎになった。
「オリバーに抱かれたい」「オリバーの子どもを産みたい」
と、目をトロンとさせる馬鹿な娘まで現れた。
ハッタリの達人康芳夫は、この人類猿とやらを、帝国ホテルかホテル・オークラに泊めようとしたのだが、両方とも、「猿なんて泊められません」と、丁重に断られた。
とうとう人類猿オリバーは、ダイヤモンド・ホテルに泊まることになったが、ここでも「人か?猿か?」の押し問答が続き、ついに根負けしたホテル側が、
「猿でなく人類猿ならお泊めしましょう」
けれど一匹・・・・・・ではなく一人だけでは困るから、誰か一緒に泊まってほしいとダイヤモンド・ホテル側が言ったので、日本テレビの一番若いアシスタント・ディレクターが、命令なので仕方なく、ツインルームで人類猿オリバーと一緒に寝た。
翌朝、蹌踉としてホテルの部屋から出てきたその気の毒な若い男は、日本テレビの上司にすがりついて、泣き声で言ったという。
「あれは、正真正銘のエテ公です。人間でもなければ、人類猿でもありません。ただの猿です」
その若い男も、今では立派な管理職になって、パイプなんかくゆらしているのだが、そんなことはさておき・・・・・・。
塀の中で退屈しきっていた私は、虎と唐手使いの日本人を、ハイチで闘わせようと企てたり、モハメッド・アリにレフェリーを頼んで、無知と野蛮・粗暴で世界に知られるウガンダのアミン大統領に、アントニオ猪木と試合をさせようとして、康芳夫がいずれも失敗したのを知る。
時間だけは嫌になるほどあった塀の中なので、私は同年輩のこの驚くべき中国人のことを、この際徹底的に考えてみようと思った。焼餅を焼き、妬んだ揚句に、手酷い目に遭うことをひそかに願ったこの怪人だったが、暇な塀の中で考えてみると、妙な謎があることに気付く。
先にも書いたが、それまでは発想が雄大に飛躍しているので、日本人を仰天させはしたものの、まともな興行を考えていた康芳夫が、昭和四十八年のネッシー以後、自ら望んで怪しげな山師かペテン師という評価を得ようとしているとしか、私には思えないのだ。
私は、康芳夫が並外れて頭のいいことを知っているだけに、自分をどんどんいかがわしく見せようとするのが、なんの狙いなのか、一所懸命考えてみた。
マゾヒストだと決めつければ、それで簡単に答えが出てしまうのだが、理屈がつかなくても、私は、なぜかけっして、そんなことではないと確信があった。
それにしても、この康芳夫は、次から次へと怪しげな計画を立てて、どこからかスポンサーを見つけてくると、資金を出させるのだ。やたらと金のあったテレビ局を始めとして、本当に日本にはいろいろな金持ちがいるものだと、つくづく思う。
スコットランドのネス湖まで行って、無害なネッシーを探して掴まえるより、他に金を使うことがないとでも金主は思っているのだろうか。地方のお祭りの見世物小屋でも、木戸銭を一〇〇円取ったら客が怒るような猿を、莫大な金を出して連れてきてテレビの画面に映そうと考えるなんて、これは何か法に触れないのが不思議に思えてしまうようなことだ。
それを康芳夫が説くと資金を出す奴がいるのだから、これは昭和四十七年に私自身が感じたあの怪人独特の魔力なのかもしれない。
昭和五十四年まで、私は康芳夫の謎を解こうと、思い出すたびに考え込んで時間を潰したのだ。今になって思えば、きちんと言葉にこそならなかったが、驚愕するような結論は、もうほとんど頭の中でガスから固体に変わりつつあったように思う。
昭和五十四年に前刑を終えて府中刑務所を出所した私は、二年経って親分に詫びを言って許してもらうと、足を洗って堅気になった。
四十も半ばで棲む世界を変えたのだから、資金もなければ技術もない私は、なんとか喰っていくのが精一杯で、その間は康芳夫のことも、キャビアやシャンペンの美味しさや、めくるめくような色事を一緒に、すっかり忘れてしまっていた。
永いくすぶるがようやく終わったのは、昭和六十一年の夏に、ある出版社が私の単行本を出版してくれたからで、出所してから七年以上も経っていた。
それからというものは、今まで乱暴に使って痛んだ五十歳の身体を、限界まで使うような忙しさに捲き込まれて、そのまま今日までそれが続いている。
芽が出ない、出ないまま老いぼれて、くたばってしまうのかと、焦りで気が遠くなる地獄の毎日を思い出せば、忙しくて辛いと泣きはできない。
芽が出て猛烈に忙しくなったら、それまですっかり忘れていた康芳夫のことが、なぜか続けて私の耳に入ってきた。そしてついに意外なところで、私は康芳夫を再会することになる。
・・・・・・・・・次号更新【『ノアの方舟』発掘計画】に続く