◆異相の呼び屋・康芳夫:なぜ、康芳夫は自らペテン師になったか
「欺してごめん」安部譲二(クレスト社・1993・12)
頭の中にウィルスを放たれる
カウンターだけのこのバーを、その姿がよくて綺麗なママは、ひとりで愛想よく切りまわしている。コの字形のカウンターは、全部で一二、三人座れば満員だが、その日は誰もまだ来ていないようだった。
私は入口のほうの隅に座ると、ママは長い睫毛の目で見詰めて、来てくれたのが嬉しいと言って瞳をキラと輝かす。私の席の真正面の奥の隅に、氷だけ残ったタンブラーと灰皿が置いてあって、ママが片付けないのは、何か用があって外に出ているのかトイレの中に客がいるのだろう。
ママは生まれつき陽気で愛想のいい女に違いないのだが、自惚れではなく私に好意を持っている。とてもチャーミングで、しかも頭だって五分も話すうちに、女としては最上級だと分かるのだが、だからといって、けっして才走ってはいない。
ご馳走しようと言うと、ママは私と同じI・W・ハーパーのソーダ割りを、同じペースで呑み始めて、誰も客が来ないうちに私たちはずいぶん親しくなった。
ママはほんのり頬を染めて、私と話すのを楽しんでいたのだが、だんだんと互いの目を見詰め合ってる時間の長くなるのを、私は感じていた。
私は、もうこのママを手に入れることを確信していて、後はタイミングだけだと思ったから、カウンターにあったママの白くて形のいい指を、手を伸ばすと自分の掌で上から覆ってしまう。
「ジョージさん。やあ、しかし貴方は素晴らしい。こんな復活なんて今までなかった。おめでとう、凄い人だ、貴方は・・・・・・」
いつの間にか座ったのか、店の奥の隅から巨きな顔をした男が、よく通る声でそう叫ぶと、ママに向かって空のタンブラーを軽く振っていた。
髪を総髪にしたこの男は、イギリスに棲む白い巨きな顔をした梟に似た異相で、邪魔者に細めた私の目に向かって、嬉しそうに顔をほころばせる。
席から立ったその男は、こちらに向かってやって来た。一度見たら、けっして忘れようのないその顔は、康芳夫だ。
近づいた康芳夫は私の手を固く握って、肩を抱くと再起を喜んでくれる。私も昔の舎弟が、世話になっていると礼を言った。
客同士が奇遇を喜ぶのを見ると、ママは微笑んで調理場に入る。
康芳夫は、その瞬間を捕えて、
「ジョージさん。あの女に僕は惚れています。ゆくゆくは女房にするつもりです。どうか協力してください。お願いします」
と、私の耳に巨きな顔を寄せて、小声で真剣頼んだので、これは断れない。まして直前に、私は以前の舎弟が世話になっている礼を言っているのだ。
仕方がない、せっかくいい女が気を見せたのに、解毒剤は別のを急いで探さないと、毒が回ってしまうと、そんなことをしきりと考えていたら、康芳夫は私の作家としての再起と成功を繰り返し賞賛し感嘆し続けて、舎弟のことまで、私の仕込みなので、信頼できるし、よくわきまえていると褒めてくれた。
「ジョージさん、事情と汲んで、ここは一番、『よし分かった。安心しろ』って、そう言ってください。お願いします」
康芳夫は、まだ私が頷いただけだったので、念を押そうとする。
私に充分気があった最高の解毒剤を、仕方なく諦めた私だったが、どうもこの康芳夫と口を利くと、頭の中にウィルスでも放たれるようで、考えが変わってしまうのではないかと思う。
こんど康芳夫が何か説得しようと喋り始めたら、耳を押さえて走って聴こえないところまで行こうと、私は思った。康芳夫には、話を相手の耳から吹き込めば、頭の中のものを思想でも価値観でも、変えてしまう魔力があるようだ。
綺麗なママを断念させられた場面で、私はそこまで考えると、昭和五十四年まで塀の中で考えて、言葉にはならずに、ガスから固体に変わりかけているように思えたことが、突然思い出されて言葉になった。康芳夫の謎に、答えが出せたのだ。
海城高校から東大に入るほどの頭を持った康芳夫が、ある時点から、自ら望んで自分をいかがわしく怪しげな、山師かペテン師と呼ばれるようにしたのは、マゾヒストだからではない。
自分をまともに見せて金を捲きあげるのは、ただのペテン師で、珍しくもなければ康芳夫ほどの頭脳は要らない。自分を怪しくいかがわく見せて、山師、ペテン師、虚業家とレッテルを貼りつけてから、相手の脳に声を送り込んで、金でもなんでも捲きあげてしまうのだ。
新宿のバーでの出逢いから数日経って、ホテル・ニュー・オータニのバーで、康芳夫は機嫌よく私と呑んでいた。総髪を短く刈ったら、あの怪人がとても可愛く見えたのに、私は思わず微笑んだのだ。そんな私を見た康芳夫は、話題を変えると上体を起こし、そのまま前に傾けてきた巨きな顔を私に近寄せてくる。
「ジョージさん。ノアの方舟の探検隊に副隊長として参加してください。世界四五億の民衆の期待に応えるのです」
すでにあのバーのママに替えて、さらに効きめの強い解毒剤を手に入れていた私は、落ち着いて両手で耳をしっかり押さえると、イエロー・サブマリンを唄い始めた。こうすると康芳夫の声は聴こえないから、魔力は通じない。
「康さん、もう充分だろう。仲間だけ集まって、どこかに素敵な国を創らないか。自分の能力を、素晴らしいものを作るのに使ってごらんよ」
イエロー・サブマリンを中断して、私は両耳を押さえたまま叫んだ。
・・・・・・・・・異相の呼び屋・康芳夫:「欺してごめん」安部譲二:了