スポーツ興行の裏側は小説よりも奇なり

暗黒プロデューサー・康芳夫が語る(サイゾー June 2007 より)

暗黒プロデューサー・康芳夫が語る(サイゾー June 2007 より)

---まず、康さんの格闘技興行歴を簡単にご説明願います。

康芳夫(以下、康)ボクシングのモハメド・アリ対マック・フォスターの試合(1972年)をやったのが最初。その試合はアリがベトナム戦争の徴兵を拒否した関係で、タイトルを剥奪されて、ノンタイトルの試合だったけど、実質的なタイトル戦。その4年後が、アリ対猪木の異種格闘技戦です。これは猪木君が自分でプロデュースして、僕は契約関係などの法的な部分をコーディネートした。そしてさらにその2年後、イディ・アミンという、ウガンダの大統領と猪木君の試合を予定していた。でも直前になってウガンダで内戦が起きて、彼がサウジアラビアに亡命しちゃってパーになった。赤塚不二夫君なんかは「(想像を超えてるから)もし実現したら漫画家やめる」とまで言ってくれたほどの、夢のような対戦だったんだけど。

---それらの異種格闘技戦は、いわば今のPRlDEやK-1のルーツですよね。

康 石井君(和義。元K-1プロデューサー)は、アリ戦からK-1のヒントを得た。最近出て、すごく話題になっている『1976年のアントニオ猪木』って本があるでしょ?

よくできた本だけど、あの本には間違いがあるんだよ。「アリがプロレスファンだった」って書いてあったけど、それは違う。当事者だからわかるけど、アリ陣営は最初、リアルファイトでやりたいというオファーをジョークとして受けたんですよ。アリはプロレスを完全にバカにしていて、初めから勝ち負けを決めておいてファイトマネーさえもらえればいいと思ってた。片や猪木君は、あまりにステータスの低いプロレスの惨めな状況を打破したかった。結果、アリ側に有利なさまざまなルールを受け入れる形にはなったけれど、本当のリアルファイトになったんだよ。6Rかな、猪木君がアリを押さえ込んで、腕をひねろうと思ったけど、彼にはそれができなかった。世界の黄金の腕をもし折ったら、その後猪木君はどうなる? 猪木君にそう思わせたアリという存在の凄さ。世紀の凡戦と言われた試合だけど、あの試合によって黄金期の猪木君が生まれた。

---『虚人魁人康芳夫』によると、康さんは、アリに近づくためにイスラム教に改宗されたんですよね?

康 そう。今でも猪木君と話すんだけど、やはり残念だったのは、アリがレフェリーをやるはずだった猪木対アミン戦。僕が京王プラザホテルでアミン戦の記者会見をやってる同じ時刻に、アリもNYでこの試合の記者会見をやったんですよ、それで世界が大騒ぎ。アミン大統領と直に決めた話だから、駐日ウガンダ大使館が「我が国の大統領がプロレスラーと試合するのはあり得ない」なんて外務省に抗議してきた((笑)。

---アミン大統領には、どんな経緯でオファーしたのですか?

康 きっかけはアリですね。彼は回教徒世界青年会の議長をやっていて、そこにアミンも入ってた。アミン大統領は東アフリカのボクシングヘビー級チャンピオンだったから、彼が試合してる映像を見て、これならいけると踏んだんです。米テレビ局のNBCが銀行に500万ドルの保証金を支払い、日本ではアリ対猪木戦同様にテレ朝が中継をやる予定だった。ところが、レフェリーをやるはずだったアリは、米国メディアから轟々たる非難を浴びた。アミン大統領は「ブラック・ヒットラー」ってあだ名がついていた(大統領時代に、ウガンダ国民30万人を虐殺したため)くらいだから、アリも慌てちゃってね。確かに、僕がウガンダに行ったら、サッカー場の地下に大きな冷蔵庫があって、アミンはその中に敵将の首を冷凍してた。名前が書いてあって、それが雪だるまみたいに凍ってるんだよ(笑)。国際的に非難をうけていたから、試合が中止になっていちばん喜んだのはアリ本人とマネージャーだよ。

・・・次号更新に続く