週刊ポスト(1996年4月5日)より
「希代の怪人」が毒蜘蛛連れて臨海副都心散歩
アリをおびえさせた人
嵐山光三郎
康氏が不良であることは、この写真を見れはイチモクリョーゼンである。悪い、こわい、とんでもない。
だからぼくは、夜のチマタて康氏に会うと、いち早く逃けることにしているのだが、康氏はめざとくぼくをみつけて、「オイ、アラシヤマ」と呪文のごとく声をかける。すると魔法をかけられたように、足かしびれてしまう。康氏は、密教系の呪術をもっているのである。
気味か悪い。
二十年くらい前、康氏に、モハメド・アリ戦の入場券をもらった。飲み屋でとなりあわせたとき、「オイ、これをやるよ」と言って、入場券をくれた。モハメド・アリが東京で世界タイトルマッチをしたときで、とてもじゃないが手に入らない切符だった。
で、ぼくは、それが本物の入場券ではないという確信があったのでケラケラと笑った。
「本物だよ。だって、オレかアリを呼んだんだ」
と康氏は胸をはった。
おかげで、ぼくは、本物のモハメド・アリの試合を見ることができた。
びっくりしたのは、試合の前に、康氏がギンギラの服を着てリングにあがったときだった。モハメド・アリが、化け物を見る目つきでおびえていた。
アリをふるえさせちゃうんだから、そのころより怪物だ。
こういう不良をのさばらせておくことは、健全な世間のためにならないので、ぼくは、ひそかに「早くくたばれ」と思っていたが、そう思えば思うほど、康氏は元気になり、世間を挑発する、ホンマものの不良なのである。
ぼくは、康氏に会うたびに、不良でありつづけることの体力と意志力に圧倒される。不良てありつづけることの理念が、どこから生じるのか。
これにはなみなみならぬ意志がいり、そんじょそこらの人間にはマネができない。それは、かつて不良であった男たちが、五十歳をすぎると、とたんに、正義の人になってしまい、
「いやあ、オレも昔は悪いことをやったもんだ」と自慢話をするのを見ればわかる。
康氏が不良でありつづけることは、ぼくにとっては、刃物を喉もとへあてられるようなハゲマシだ。こっちも負けちゃいられない、と気合いが入る。骨の芯に、ズンと根をはった純情がある。犯罪への夢想がある。未知の空漠への旅がある。少年の野心がある。
日本の男たちよ、康氏をみならって、もっと不良になろうじゃないの。もっと悪くなろうじゃないの。いい子になって、優等生のツラをかぶっていたって、そんなメッキはすぐにはがれる。不良でありつづけることのみが、自分が、世間を生きていることの証明である。