ニッポン最後の怪人・康芳夫

彼らの相手をするには、おのずと「非常識な力」が強く求められることになる

私が仕掛けた興行の数々。大物ミュージシャンやボクシング界のスーパースター、ネッシー、オリバー君、アラビア大魔法団といった連中はみな世間の常識の外にいる存在だ。

だから彼らの相手をするには、おのずと「非常識な力」が強く求められることになる。

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猪木・アリ戦

オリバー君の全国ツアーも終了し、また私は一時の休暇を楽しんでいた。気に入った本を読んだりしていたが、相変わらず常に頭の中は次のターゲットを探してフル回転していた。そんな時、当時人気急上昇中だったプロレスラーのアントニオ猪木から連絡が入った。真剣な声で相談したいことがある、と言うのだ。アントニオ猪木とは、その頃結婚していた女優の倍償美津子と一緒にペンシルバニアやフィラデルフィアにプロレスを見にいったりして懇意にしていたのだ。

久しぶりに会って食事をしながら話を聞くと、彼は熱く「ある構想」を打ちあけてくれた。

「康さん、僕はモハメッド・アリと試合がしたいんです。ボクシングとプロレスの異種格闘技戦。ルールは相談して決めてやりたい。ぜひ、実現したいんです」。

これが世界初といってもいい異種格闘技戦「猪木・アリ」戦のスタートだった。世間的にこの猪木・アリ戦をプロデュースしたのは私だと思っている人がいるが、実はちがう。発想からプロデュースは、すべてアントニオ猪木本人だ。そしてプロモートしたのが、私の顧問弁護士、ロバート・アラムだ。彼はアリの「徴兵拒否」裁判で無罪を勝ちとり、いちやく世界的に有名になり、その後ずっとアリの弁護士を務めた。私は猪木から相談を受け、さまざまなアドバイザーとしてロバート・アラムを紹介したり、裏の関係などをとりしきった。いってみればコーディネーターといったところか。またルール作りや契約関係なども私がいろいろ助言した。資金的にもアントニオ猪木が全部とりしきった。彼を見こんだスポンサー、佐川急便の佐川会長が全額出資してくれたのだ。

熱心な猪木の意向もあって、最初はほとんど真剣に話を聞かなかったアリも、徐々にその気になりだした。はじめての異種格闘技という触れこみで衛星中継もついて、マスコミも盛りあがっていき、ついに一九七六年六月二六日、日本武道館で「猪木・アリ戦」は実現したのだ。

猪木・アリ戦:僕はモハメッド・アリと試合がしたい

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