1980年代、テレビ、イベント、出版という各メディアを股にかけた数々のオカルト的迷企画で、日本のみならず世界中を翻弄した“国際暗黒プロデューサー”康芳夫。そんな“暗黒知識人”が突如として『TOCANA』というウェブサイト上に蘇り、全方位へと辛辣すぎる攻撃展開しているのは、もはやこのサイトの読者ならおなじみの風景であろう。そんな“生けるオカルト伝説”である康芳夫が、今回は遂に“虚業家”伝説の共犯者を召還した。その男とは、現在、日本中のセレブリティたちを狙撃し続ける『週刊文春』の元編集長にして現在は右サイドから日本を刺激し続けるオピニオン誌『WiLL』の編集長、そして《文春スクープ帝国》の礎を築いた“元祖超攻撃的編集者”花田紀凱である。50年の時を経て、今も昔も“絶対に敵に回したくない恐怖のタッグチーム”による《初対談企画》がここに実現したのである・・・・・・!
元文春編集長・花田紀凱が語る『週刊文春』スクープ独占の理由!:康芳夫VS花田紀凱
◆康氏と花田氏50年間の付き合い
康芳夫(以下、康)「花ちゃんいまいくつだよ?」
花田紀凱(以下、花)「73(歳)です」
「俺は今度79(歳)だけど、遂にこの歳で本格的に俳優デビューだからねえ。4月12日から始まるドラマ『ディアスポリス』(TBS系列)で監督は、昨年度モスクワ国際映画祭グランプリを獲得した映画『私の男』の熊切和嘉。映画の方は彼が撮るんだけど、ドラマの方は彼を入れて4人で撮るんだよ。希代の俳優として頑張るから、花ちゃんは後援会長になってくれよ」
花「もちろんいいですよ。ところで、今日はなんの話をするんですか?」
康「なんでもいいんだよ(笑)、まずは『週刊文春』からいくか? 相変わらずスクープ連発で凄い勢いだねえ。ついにナベツネ(渡辺恒雄)の首も取った。次は誰だ? さしずめ安倍晋三総理か?」
――康さんと花田さんのご関係は、康さんの著書『虚業家宣言』(1974年・双葉社刊)を花田さんが書かれた頃ですよね?
康「そうそう、彼がその本のゴーストライターだ(笑)。今まで、オープンにしていなかったんだ」
花「僕は1966年に文藝春秋社に入社したんですけど、最初は『オール讀物』って小説雑誌に配属されたんですよ。そこで2年経って、『週刊文春』に移動になったんですよ。当時の僕は『週刊文春』のペーペー記者で、その時の僕の上司が堤尭って人です。康さんの朋友ですね(笑)」
康「悪友だよ(笑)」
花「その彼の下に僕がいたんです。それで、ある日堤さんが“行こう”って言うんで、ついて行ったら康さんのところで。“康が本書くんで、オマエがゴーストやれ”って(笑)。それで一生懸命やったんだけど、康さんにはあんまり売れなくて叱られましたよ。“オマエの書き方が悪いんだ!”って(笑)」
康「まああの時はしかるべき原稿料を払っていたからね(笑)。その前に花ちゃんがやったのは、僕が全権代理人である『家畜人ヤプー』の沼正三インタビューだったよな。あれは花ちゃんの独占だよな。新宿の怪しげな旅館でねえ、あれ花ちゃん覚えてる? 今考えたら、沼正三最初の独占インタビューだったな。6年前に沼正三は亡くなったけど、極めて貴重な歴史的インタビューだった」
花「もちろん覚えていますよ。それも堤さんとやったんですけどね。文藝春秋の編集局長、常務も歴任された人ですね。僕の元上司で、一番尊敬している先輩です」
康「いまもこれ(花田氏編集の雑誌『WiLL』を指す)で連載しているよね、花ちゃんの盟(迷)友だよ」
花「『WiLL』では書評もやってもらっているし、ウチの名物連載で毎月対談もやってもらっています」
康「いい意味でも悪い意味でも、花ちゃんの“刎頸(ふんけい)の友”だ」
花「違いますよ、僕は“不肖の弟子”です。“刎頸の友”は康さんじゃないですか。その頃は康さんと日刊現代会長の川鍋(孝文)さん、堤さんっていうのでいつも銀座で飲み歩いていたんですよ」
康「彼は元気? 日刊現代の川鍋くんはこの前あの世に逝ってしまったが、我々『三人組』は別名マスコミ界の『三悪人』と呼ばれていたんだ。それこそ泣く子もションベン漏らす存在だったね」
花「元気ですよ、この前も階段から落ちて頭蓋骨骨折とかしていましたが(笑)」
康「堤くんも階段から落ちるような歳になったか(笑)。『オツム』大丈夫かね。元々「オツム」は少々おかしかったけど」
花「病院で、“花ちゃん、酒飲んだ時はタクシーで帰らなきゃダメだな”“そりゃそうですよ”」
康「俺も最近は酒飲んだら足がふらつくようになってきたけどね」
花「そうですか。まあその時に本書いて以来の付き合いになりますけど、康さんはその頃はもう『国際ネッシー探検隊』をやっていたりして有名人でしたからね。髪も真っ黒で、今よりもっと伸ばした長髪、それでピンクのチャイナ服着てさ。もうホントに何者かと思いましたよ(笑)」
康「まだ花ちゃんが25~26歳のチンピラ記者の頃だ(笑)。それからもう50年くらいになるねえ……公私ともに長い付き合いだな」
花「そうですね。今はもう焼けちゃったけど、ホテルニュージャパンにはレジデンスとホテルがあったの。そこに康さんの事務所があったんだけど、そこはもう日本の悪い人ばっかりがいたところで(笑)」
康「当時、ボクはかの有名なホテルニュージャパンにオフィスを構えていたんだが、ニュージャパンに巣食っていたのは、ほとんど悪徳政治家、悪徳ブローカー、ヤクザの親分など、ヤバイ連中ばかりだったよ。いま維新の党の松野(頼久)くんっているだろ? あれの親父もいたんだけど、これがまたワルい政治ゴロでねえ。まあそんな関係ないんだけどね、今日は花ちゃんなんでも好きなこと言っていいから。まずは『週刊文春』のことからいこうか?」
◆『週刊文春』はなぜスクープがとれるのか?
花「僕が『週刊文春』の編集長をやっていたのは1988年から1994年までですね」
康「今の編集長はまだ入社していなかっただろ?」
花「いや、僕の下にいました。新谷(学)は僕が『マルコ・ポーロ』をやっていた時に僕の下にいたの。今でもよく会っていますよ。向こうも忙しいから時々ですけどね」
康「そうなると君は恩師ってことになるな」
――当時の直属の部下ということですか?
花「そうそう、だから“最近よく頑張ってるなぁ”と思ってて、嬉しいですけどね。そもそも、僕は週刊誌が大好きなんですよ。それで、『週刊文春』っていうのはだいたい編集長は2~3年で交代するものなんです。だけど僕は6~7年くらいやって、凄い売れたんですよ。50万部くらいだったのが、僕がやって75万部くらいになった」
康「80万部くらいじゃなかったか?」
花「売れた時はね、それこそ新年号とかは130万部売れた時もありました」
康「それは凄いね、今週刊誌の中で『週刊文春』が一番売れているんだけど、それでも最盛期の半分くらいだ」
花「そうですね、41万部くらいですね。そうやって段々(部数が)落っこちてきたけれど、新谷くんが頑張っている。雑誌の世界では、どこか一誌が頑張っていれば他のライバル誌も元気になってくるものなんです。だけど、今のあれに追いつくのはちょっと難しいですね。というのは、もう今は出版界全体がダメだからね。今から20年前の1996年は、出版物全体の売り上げが売上が2兆4000億円~2兆5000億円あったんです。今はそれが1兆5000億円くらいだから」
――ほぼ半減ですね。
花「ほぼそれくらいですね、1兆円も下がっていますからね。そんな中で週刊誌やらなきゃいけないから大変なんですけどね。今日も巨人軍の野球賭博問題を『週刊文春』がやったから、その掲載号が出る前に慌てて対応して先に発表しましたけど、最近はああいうことも大変なんですよ」