原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

マゾッホにも谷崎にも、鞭や苦痛よりも大事なものとして見落してならないもう一つの要素

---足崇拝(フェチ)をあげる必要がある、足フェチと凌辱、この線がマゾ世界の主脈である、鞭と苦痛は支脈に過ぎない。鞭と苦痛の線上には即物的な肉体主義があり、足フェチと凌辱の線上には観念的な精神主義がある、前者は閉ざされた密室世界での個有な限られた空間での対人関係のうえに成立し、後者は、開かれた日常性の中に還元され、任意的一般性の中へ空想を推進力として広がっていくものである。前者はサド的であり、後者はマゾ的である。同じ漂流物文学でも、『ロビンソン漂流記』はサド的性格であるのに反し、『ガリヴァー旅行記』はマゾ的である。

マゾヒズムと一口にいっても、その態様の種種相は千差万別、それぞれ煩瑣な解釈が成り立つことはもちろん承知のうえである。その錯雑したマゾ世界をこうして図式的に整理してみるとき、特に顕著な二つの傾向に分れることに気づく。つまり苦痛か凌辱か、という、二者択一の課題がこれである。前者の媒体が鞭打であり、後者が足フェチである。鞭の延長線上に、いわゆる皮フェチがあり、その線上で連想される願望上のフェチシズムとして、奴隷(スレイプ)と鎖、馬と拍車へのイメージにとつながる。だが一方の足フェチにつながる願望上のフェチシズムは召使い(サーヴァント)と異性崇拝、犬、豚、便器へのイメージを呼び、スカトロジカルな嗜尿(ウロラグニア)の想念を開かせる。

苦痛派と凌辱派の二者に共通して見られるものにフェチシズムがある。鞭や皮、マゾッホにおける毛皮フェチ、そして靴フェチ、下着フェチ、汚物フェチと、フェチシズムを抜きにマゾは語れない。この点からマゾヒズムをフェチシズムの観点から説明する人もいる。マゾヒストを主人公にした遠藤周作氏の中編『月光のドミナ』における苦痛と凌辱、二者択一の課題を主人公に与え、あえて凌辱を選ばせた作者の意図が、氏に『白い人』を書かせ『沈黙』を書かせた発想上の心因となっている。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く