原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

通念化するときどんな世界が開けるか

マゾヒスチックな願望から、「あなたの奴隷にしてください」とひざまずく男性の側からの訴えではなく、「わたしの奴隷におなり」という、女性の側からの表明がなされねばならない。その表明が『家畜人ヤプー』の世界である。マゾヒズムが何であるか、何をどう欲するのか、その千万の解釈はどうあれ、『家畜人ヤプー』はその一つ一つに具体的・鮮明な形式を与えたことで画期的である。既定の権威や通念に一大衝撃を与えるといった、サド式の反逆と抵抗の代りに、むしろ社会通念や体制的なものに対して最初から無視、等閑視しきった皮肉な厭世主義(ニヒリズム)が基調にあり、人類社会という絶対社会を御破算にして、それは無限に宇宙空間にコダマし合う相対的・任意的な仮の現象として、逆に遠くの銀河系から、かりそめの地球を多くの惑星の一つとしてはすかいにながめるテイの反人間主義にもつながる。それは同時に、無限の可能性を相互に反復・止揚し合って留まるところを知らない遍歴ともなる。

遍歴の果てに、ついには「女性とは何ぞや」という課題の前で足踏みせざるを得ない。「ゴオティエは斯う云つて居る---ポオドレエルの詩の中にある女性は、箇々の、現実の女ではなく、典型的な『永遠の女性』である。彼はUne Femmeを歌はないでLa Femmeを歌つて居るのだつて。---君のやうなMasochistの頭の中にある女の幻影も、やつぱり或る一人の女性ではなくて、完全な美しさを持つ永遠の女性なんだらう」(谷崎潤一郎『前科者』)。永遠の女性とは、個々の女性ではなく抽象化された女性一般ということでもある。絶対女権の世界で、女性のサジズムを回復し、それを快楽の具として一般化し、通念化するときどんな世界が開けるか。その回答が『家畜人ヤプー』である。この壮大な空想世界に生きるマゾヒズムの希求は、決して、受動的・潜在的ではない。日常的なものをついに再組成して独自の世界を開くことにおいて能動的・顕在的である。『家畜人ヤプー』はそのことを証明した。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く