原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

嗜虐(サジズム)の鮮烈な激情を私は忘れ得ない

ここで一つの設問が生じてくる。結局手段はともあれ、終局的に子宮内において放射さえし得ればそれも「ノーマルの範囲」にはいるのか、ということである。一人のサジストがいて、彼は死ぬほどに女を鞭打ち、首を絞め、半死半生の状態にさせてからでないとコイッスへの情熱がわかない。しかし、最後に至っての、彼の子宮内での爆発は猛烈であり的確である。暴行魔がいて、人通りの少ないところで婦女子を見かけると制御できない。そこで、手当り次第に婦人を路上で襲うことになる。ただ、彼の子宮へのネライだけは狂いがない。正確に的を射ることにおいてはハズレがない。結局、エリスやクラフト・エビング以来の「生殖行為にいたる性行動」をもってノーマルとするならば、この限りにおいては、サジストも暴行魔もノーマルだ、ということになる。ただ彼が、フエラチオを無理じいし、口中にでも爆発させないかぎり、自然が要求する生殖への合目的性において、彼らは明らかにノーマルといえる。したがって、ホモ行為において、アヌスを目的の性行為なぞは当然アブノーマルとなることは論をまたない。

しかし、この論調を進めると、発射寸前の中絶や、まして避妊具を使っての行為なぞは、サジストや暴行魔のノーマルに対し、最もアブノーマルなセクスだといわねばならない。それは自然の摂理に反し、反逆を示す行為だからである。生殖を拒否することにおいて、最大の反逆は自慰である。したがって、自慰こそ、最大のアブノーマルだということが導き出される。

厳格な戒律で有名な川崎市のあるカソリック系の学校の生徒である十五歳の少年が、クラスメートの少年を刺殺し、あまつさえ首を切り落した猟奇事件が起った。「いつも悪ふざけをするから、その仕返し」だという理由は意味をなさない。あえて嘘をつくというのではなく、少年自身理由の本然たるところの説明が、ついてつかなかったことが本意であろう。

筆者自身の例で申しわけないが、小学校四年生のころだったと思う。クラスメートに知能遅れの少年がいた。頭ばかりが福助のように大きく不安定で、しまりのない口元からはいつもヨダレを垂らし、とりとめもない表情は常に半ば笑ってでもいるように広がってつかみどころなかった。

いつもは念頭になかった彼と、いつか校舎裏の細い通路でパッタリ鉢合せしたことがあった。あの時の瞬間的にたぎり立った嗜虐(サジズム)の鮮烈な激情を私は忘れ得ない。まっく理不尽な怒りが私を狂的に捕えた。私はほかに人のいないその通路で彼を捕え、その無抵抗さのゆえにいっそう駆り立てられ、哀れな犠牲者の横面をなぐりつけた。いつも笑っているような、とめどもない表情しか見せなかったいつもの彼の顔に、戸感いと恐怖の情が浮び、本能的に腕を上げてこのいわれのない暴力に防護の姿勢をとった。

その姿勢がまたなおのこと私を駆り立てた。私は壁ぎわに獲物を押しつけ、一種恍惚感の中に我を忘れ、日射しを斜め上から浴びながら、さながら酔いしれる者のようになぐりつづけた。あの少年期特有のサジズムと暴力による制圧感と、破壌的な本能が私に一種のオルガスムスを起させていたことは事実である。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く