康芳夫×荒木飛呂彦

校長 謎の大物・康芳夫
火の玉スクール! ゲスト:荒木飛呂彦(漫画家)
月刊キング(2008・3)より

― お二人の出会いはいつだったんですか?

荒木飛呂彦(以下、荒木) 確か2002年だったと思います。当時「変人偏屈列伝」というシリーズを描いてまして、そこに登場していただくために、一方的に取材させていただいたんです。

康 荒木さんは、当時と印象が本当に変わらないですね。

― 康さんを描こうと思った理由は何だったんでしょう。

荒木 物語を描く時に、僕は登場人物の「動機」を大事にするんです。なぜボクサーになったのか、その人の子供時代にまで遡って、原点を知りたいんです。世界には「どうしてこんなことをするのか?」と特に強く思ってしまう、漫画に相応しい「変人」がいるんですが、日本にはなかなかいません。社会とか組織とか、自分を貫くことが難しい環境なんでしょうね。そんな中で、こういったら失礼というか僕としては褒め言葉なんですが、康先生はまさに「変人」だったんです。ルックスも怪しい感じでしたし(笑)。

―康さんの存在を知った、きっかけは何ですか?

荒木 子供の頃に「ネッシー」とか「オリバー君」をテレビで観てはいたんですよ。それを仕掛けたのが康先生だったというのを荒俣宏さんが書かれた著書や康さんの自伝を読んで知ったんです。

康 荒俣君もね、僕のところにきて取材してましたね。

荒木 僕の中で「変人」の必要条件は「ブレない」ことなんです。1~2年だけ変わったことをして目立っても、それは「一発屋」でしかないですから。一生ブレずに貫くことが本当に難しいことだと思うし、そこがすごい魅力なんです。

康 大変失礼なんですが、僕は当時、荒木さんの作品を詳しくは読んでいなかったんですよ。その後、取材をきっかけに色々調べさせていただいて。今回の対談に荒木さんを指名させていただいたのは「ジョジョの奇妙な冒険」という長編シリーズには大きな問題を孕んでいると思ってね。根本的な世界観というか、ある種の黙示録を感じるんです。すべてを読ませていただいたわけではないんですが、「ジョジョ」には「スタンド」という存在が出てきたり、いろいろな「善人」と「悪人」が出てきたり、、主人公も、善と悪の2人を立てていますよね?

荒木 そうですね。

康 善と悪の規定が、これからそれを超えた境地に辿り着くのか?それとも同じように対立を繰り返すのか?そこら辺が重要な問題だと思うんです。

荒木 おそらく康先生と共通だと思えるのが、まず「謎を知りたい」という気持ちがあることです。ネッシーがいるのかとか、子供の頃から「謎」を知りたがる性格でした。大人になると「謎」の質が少し変わってきて、たとえば「善と悪の境界線はどこにあるんだろう?」といったものが「謎」になったりする。そういうものを、永久に解らないままなのかもしれませんが、描いていきたいんです。超能力という言葉だけでは片付けられない、物理的に説明できない領域ってあるじゃないですか?それを読者に具体的に示したいと思ったのが「スタンド」という絵による表現になったんです。それ以外では「光」も絵で描きたいですし、善と悪というのも、どこからが善で、どこまでが悪という問題じゃなくて、白があれば必ず黒がある、という「二元性」が存在しているということを描かざるをえないんです。

康 大事なことを聞きたいんだけど、あなたがこの世界観の中で、善や悪に対する定義がないということですか?そうじゃないですよね。市民社会の基本ルールは、そこにあるわけでしょう?

荒木 はい、それはベースにあります。

― たとえば悪が、何かのきっかけで善に変換されることもありますか?

荒木 裏返しになることはあまりしないです。やはり白と黒とで、曖昧にしたくないですから。

康 ただ僕は、荒木さんが描いているものは市民社会のルールの枠では語れない、超越的な善と悪を描くことになるんじゃないか、と思ったりするんだよ。将来的に黙示録的な善と悪に到達せざるを得ないんじゃないか、というね(笑)。今はありとあらゆるタイプの善悪が存在していると思うんだけど、最終的な、もう一つ超越的なところに荒木さんがいくかもしれないと僕は考えた。もちろん、作品を掲載する雑誌の意向もあるかもしれないけどね(笑)、本人はどこまで考えているのか知りたかったんです。

荒木 それは「表現」という意味で、でしょうか?謎を追求しているという意味では、今はまだ「はっきりした答えがないのかもしれない」としか考えが至らない段階です。

康 たとえば、あなたが考えるストーリーの中で「光」や「時間」を絵として描くこともありますよね?それは時間とか空間に関して、新しい概念を生み出そうとしているんじゃないのか、と思ったんです。

荒木 なるほど

康 理論物理学をやっている人間でトップレベルのほとんどが絶望しているんですよ。つまり行き詰まっている。たとえばホーキング。彼は完全に行き詰まって、だんだん宗教的、文学的にならざるを得なくなった。アインシュタインも最後は宗教家になってしまった。つまり今の最先端に位置する理論物理学では「何も解らないこと」が解ったんです。まさに宇宙の構造そのものが究極のミステリーだということです。例のオウム真理教の主要幹部のほとんどが、理論物理学者、医者、生物学者で、その世界では究めつきのハイパーな連中だった。それこそ東大のトップクアスの成績だった人間が結局、宗教に走るしかなくなったんです。重力引力が「ある」ってことは解るけど実際その正体が「何なのか」ってことは解らない。医学、生物学の世界も同様に「生命」の正体は、いまだ突き詰められてない。「これ以上、俺たちは何もできない」ってことを彼等は思い知って、結果、たまたまそこにあったオウム真理教というイカサマ宗教に入ってしまった。彼らの「行き詰まり」につけ込んでオウムはもっともらしい解決策を差し出したわけ。そういう世界に、これから荒木さんはどういうやり方でアプローチしていくのか、、そうなると話が面白くなってくるんだけどね(笑)。

荒木 人間の思考の限界というか、到達点がありますよね?その先を絵で描きたいという気持ちはあります。

康 つまり、説明できない何かをビジュアル化するわけですよね。そこに期待するんですよ。ただ、そこまでいくと既存の読者は離れるかもしれない。でも、新たな読者は加わるかもしれない。新しい展開としては大変リスキーですね(笑)。ただし大いに期待します。あなたの従来の熱狂的なファンからすれば想像を絶する「スタンド」が次から次に登場する。これってすごいことですよ。

荒木 絵で描く大前提として、読者に解りやすく伝わらないといけないと思うんです。

康 それは、もの凄く難しいことですけどね。

荒木 かつて、僕の担当編集者に「メジャー誌でマイナーなことをやれ」と言われたことがあるんです。マイナーな雑誌でマイナーなことをやっても面白くないけれど、メジャーな雑誌でマイナーなものを描いたら面白い、と。ただしメジャーな雑誌でやるからには、マイナーなことを解りやすく読者に伝えたいといつも思っていて。

康 それは、非常に大切なことですよね。

荒木 ただ、「善と悪の境界線」とか「宇宙の究極はどこだ」という「謎」を追求して作品を描いていきたいんですけど、それは「答え」を求めている、というのとは違うと思うんです。

康 求めていない?

荒木 「答えを示す」というよりは、絵で読者に「なんとか伝わればいい」というのかな?もちろん伝わるということは、つじつまがどこかで合っていないとダメなんです。理論的におかしいと突っ込まれちゃいますし。でも「答え」を求めるのは、その分野の専門家にお任せしたいんです。たとえば「超ひも理論」とか、今後発展して「答え」が解るんでしょうか?

康 うーん、、「超ひも理論」は、まあインチキだと思います(笑)。理論物理学が絶望的に行き詰まっているから、それを飛び越えて、一つは宗教にいく。もう一つは東洋的な叡智に辿り着く、というのもあります。たとえばインド哲学に基づく宇宙の解明の仕方は宇宙理論物理学者の立場から判断すればとても納得できるもんじゃないんですが、最終的にホーキングと同じ結論に辿り着くのが面白い。なにせ西洋文明にない「叡智」を東洋文明は持っているから。

荒木 西洋学と東洋学を統合したら、説明できることもあるかもしれませんね。

康 西洋学は「広さ」とか「速さ」を規定したがるでしょう。でも規定の仕方がそもそも間違っている場合があるから行き詰まるわけです。つまりあらゆる現象が理論物理学で証明されるべきだと考えるからダメなんだ。見えないから証明できないだけで、実は光速より遥かに速いものがすでに存在していて、とっくに宇宙の果てまで届いている可能性は十分にある。僕の場合はそれを直感でわかっている、というか。もちろん宇宙が「有限」だと仮定(僕の考えでは「無限」)した場合に「超高速」を当てはめているだけなんだけど。

荒木 確かに、絵で描いていると、直感で解ることがあります。超能力を証明することはできなくても、絵で描ければ、それは存在するような気がするんです。「変人偏屈列伝」に話が戻るんですが、そこに登場する人は、皆さん「直感力」に優れていると思うんですよ。いつの世も、新しい時代を開拓していくのは変人で偏屈ですし、間違いなく「直感力」がある人でしょうね。

・・・虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)メールマガジン(2015.09.25 配信)に続く

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小生インタビュー記事:知的好奇心の扉 TOCANA
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