聖セバスチャンの殉教(モデル:三島由紀夫 / カメラ 篠山紀信)
三島由紀夫が発見した『ヤプー』
『家畜人ヤプー』は、昭和三十二年十二月号から、翌々年の六月号まで二十回にわたって、SM雑誌『奇譚クラブ』に連載され、未完のままに終わったものだが、発表当時から文壇の一部に異常な反響をひき起こし、なかでも三島由紀夫、澁澤龍彦 、奥野健男氏らが絶賛したといわれる。
なかでも三島さんはこの作品にほれ込み、みずからかって出て、あちこちの出版社に持ち込んだほどで、一度は中央公論社から出版することまで決まっていた。しかし、当時は六◯年安保で左右勢力の対立が激しく、ここまで徹底して日本人を卑下した小説を出せば、左右からの強い突き上げを食うのは目に見えていたから中央公論社もかなりおよび腰だった。
すると、ちょうど折り悪しく嶋中事件(深沢七郎の『風流夢譚』掲載に怒った右翼少年が中央公論社々長・嶋中鵬二邸に殴り込み、お手伝いさんを刺殺、夫人に重傷を負わせた事件)が発生、結局、出版の話は中止になったというイワクつきの本である。
こういう”奇書”が存在することを、私は三島さんから初めて教えられた。四十四年のことである。
「ぜひ、あれを見つけ給え。あれこそは戦後最大の傑作だよ。マゾヒズムの極致を描いたまったく恐ろしい小説だ。出版する価値のある本だ」
そう三島さんは、熱を込めてヤプーの内容を語りつづけた。三島さんが、あれほど真剣に文学のことを語るのを聞いたのは、それが最後になってしまうのである。
後の話だが、『家畜人ヤプー』の作者・沼正三の代理人・天野哲夫氏は、あの十一月二十五日の朝、雪ケ谷の三島邸を訪問した。刷り上がったばかりの豪華限定版『家畜人ヤプー』を、恩人三島さんに献ずるために。
・・・・・・だが、そのとき、三島さんはすでに市ケ谷に向けて出発してしまっていた。天野氏は、ついに三島さんに会うことはできなかった。運命の皮肉を感じないわけにはいかない。