2015年は三島由紀夫没45年となる。
40数年前、三島も参加した小生が刊行した高級エロ雑誌『血と薔薇』を
再録掲載することとした。#康芳夫
『血と薔薇』1969.No4
エロティシズムと衝撃の綜合研究誌
特集=生きているマゾヒズム より「いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート」:平岡正明(wikipedia)
※1969年2月、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任者として『血と薔薇』第4号(天声出版)を編集
◆いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・(連載1)
平岡正明
液体が永遠に液体であろうとする状態をもくして、マゾヒズムと定義する。
したがって、血にまつわるいくつかのタームを内省してみよう。その方法は血という語をふくむ語、慣用句を連想し、ランダムにに書きだすことからはじめてもいい。
血、血盟、血だるま、血膿、血税、売血、血煙、血刀、血まよう、血ばしる、血にうえる・・・・・・というぐあいに。単語、熟語、成句、慣用句、文、イディオムと分けて厳密にひろいだす必要はない。ランダムなほうがよく、できるだけ多くのタームを書きだすようにつとめる。すると、われわれの語感のなかで血についていくつかのイメージの系列がいくすじかなりたっていることに気づくはずだ。その一つは、血を、液体-固体-気体の相で眺めるということである。
一方においてカサブタにまで凝固しようとする極と、他方の気化しようとする極のあいだをゆれうごく、血という語の運動の一系列をである。
一滴の血、血のしみ、一筋の血、血潮、血だるま、血の雨、血の池地獄、血の海とたどる系列を仮定したときに、「血の海」あたりで、血という語は量ないしは空間の拡大にたえられなくなる。すくなくとも俺の語感ではそうだ。血の池があり、血の海があるのだから、その中間に、文法的には血の川、血の大河、血の湖が成立してもいいが、それらはおそらく文体論的には成立していないだろう。むろん「血は立ったまま眠っている」といった類の個性的なパロールでは、さまざまな表現は成立しているのだが。
「血の海」という話が、血が液体にとどまろうとするときの上限である。海---ということから、「血の海で泳ぐ」「血の海で溺れる」「血の海で難船・沈没する」という連想が瞬時に成立することが困難であり、一人の人物が流した自分の血のなかにその人が倒れているといった生々しい「血の池」を、「海」にまで拡大することにイメージがたえられず、自分の感覚が許容する血のリアリティーをこしてしまうと、「血の海」以上は拡散し、こっけいなものに変ってしまう。
液体としての血は「血の海」からさきは、拡散し、蒸発し、気化しながら成立している。たとえば、血漿、血清、純血、かえり血、血しぶき、血煙など、気体の方向にひっぱられ、どちらかといえばサラッとした上澄みの相で発想され、霧状に溶けていくイメージの傾向が抽出されてくるのである。
他方、カサブタにむかう血のイメージの傾向は、欝血、血汁、血膿、血管、血塊、血痕、血栓、血糊、血糖、毒血、凝血、血餅、血合肉、血豆などであって、円くなっていくもの、つながっているもの、圧力のかかったもの、まぜあわされたものなどの連想に支えられている。
・・・次号更新【いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・連載2】に続く