麻薬とジャズと大衆芸術:詩と思想 1974.11/No10 VOL.3

麻薬とジャズと大衆芸術(2):康芳夫×木原啓允×関根弘(司会)

ニューヨークでは乞食同然

木原 ジャズでぼくが最初にびっくりしたのは、クラシックの場合開演だいぶ前から、もう神経質なくらいまじめに緊張しちゃってるんだが、ジャズはそうじゃない。開演時間ぎりぎりになってきて、そのままオーバー脱ぎながらサーッと舞台に出て、いきなり演奏を始めちゃう。はじめ仰天したね、あれには。

康 とにかく、まあ、めちゃくちゃだったですね。

木原 事前の打ち合せもへちまもない。あれ、おそらく、きょうどうするか、その時の場あたりで決めちゃう。

関根 一種のその時の気分・・・・・・アドリブだから。

康 そのへんで麻薬なんていうのは効果を持つ。だからジャズと麻薬はひじょうに密接に関係してきますね。

関根 アート・ブレーキーが最初に来たのは正月だったろ。肉屋なんかみな休みで、ところが肉くわないと出来ねえってんで(笑)、さがして歩いたとか・・・・・・

木原 さあ? ただ初めてのモダン・ジャズだったもんだから、赤坂の「花馬車」借りきって盛大なレセプションやったな。岡本太郎からプロ野球選手まで、地方からまでやってきて、「花馬車」の松の内の貯蔵分までみんな食いつくしてしまった。それでも足りない。

康 あの時のアートフレンドの方式で正月興行っていうのが定着したんですね。それまで正月興行なんて大胆なこと例がなかったわけですよね。それがひじょうに成功した。

関根 ブレーキーはその後何回も来たな。

康 ブレーキー自身はもう七回ぐらい来てますね。

木原 前のカミさんと別れて、日本人といっしょになったとか---

康 今の女房は長崎でつかまえた。キャバレーにいたんですが、ヤクザの女でしてね。それでヤクザが追っかけてきて、ま、オトシマエをつけまして(笑)いまニューヨークに住んでますよ。子供が生まれて、アキラって名前つけて、あれはあんまりこだわらん男だから、チャンチャンコにおぶって歩いてましたよ(笑)。だいぶ前の話ですがね。

関根 アートブレーキーが。なるほどねえ(笑)

康 ともかく、あの連中、二ューヨークにいったらもう乞食同然ですからね。これははっきりしてるんです。黒人に対する人種差別からというんじゃなく、とにかくジャズのマーケットがないんですね。もっとフィジィシアルな意味でプアになっちゃう。

関根 そうか、マーケットがないのか。

康 せいぜい百人ぐらい入るところで六十%ぐらいのお客が入って、それも三ドルか四ドルでしよう。そのうちの半分がショバ代ということだから。

関根 ああ、大衆動員できないわけだな、日本みたいにな。

康 できないです。だから連中にとっては、日本というのは天国です。

木原 マイルス・ディビスでもアメリカで地方公演に行ったりすると、出迎えがくるわけでもなし、何やら夜の駅の地べたにしょんぼり坐りこんでいたというもんね。何かうけるところがあっても、一種の特殊な状熊なんでしよう。どこそこに行けば、ジャズがきげるってぐあいで、日本みたいに花束に迎えられて、何千人のホールで全国公演なんてとてもですよね。ブレーキーが初めて来た時、まず東京で大歓迎されちゃって、それから大阪に行った。空港で記者会見したんだが、「ジャズはわれわ
れの抵抗の武器である」なんて、だんだんむずかしいことをいうようになった。

康 ブレーキー自身にそういう確固とした思想があるわけじゃなくて、やっぱり日本で評論家なんかに持ち上げられて、だんだんそういう気持になっちゃう(笑)ってことはありますよね。マイルスも差別に対する抵抗の思想を持ってる男じゃない。しいていえばマックス・ローチぐらいのもんじゃないですか。彼はあの時点でひじょうにハッキリと、白人にたいしてアゲインストするという姿勢があった。あとの連中はもう、幻滅・・・・・・金はごまかす、ホテル代は払わないといった、実際に接してみると、たしかにいろんな意味で痛めつけられている疎外感からなんだとは思うけど、ぼくなんかちょっと幻滅を持ったことはありますね。

・・・・・・次号更新【麻薬か自殺か野たれ死にか】に続く