麻薬とジャズと大衆芸術(5):康芳夫×木原啓允×関根弘(司会)
砂みたいに冷酷な大衆
木原 ところで、ジャズについても、いってみれぱ配給する側の話になっちゃったが、これを受けとめる側---何ていうか、一般的に大衆というもんは、どうなんだろ康君、こないだ毎日新聞の”現代の英雄”とかいうシリーズ物に登場してたが、その中でなかなか名文句いってるんだな。たしか、大衆ってのは熱狂しやすいけど、砂みたいに冷酷だ、って意味だったと思うが、まあ、あなたのいう「虚業」の意義づけね。どうも大衆の熱狂しやすいほうばかりを見やすいんだが、それをなまはんかにやると、砂のように冷酷な大衆ってのに復讐される。
康 一種のフィードバックっていうのがあるわけですよね。だから、復讐されたら復讐しかえす、そんな関係の中で生きてゆく。アートフレンドの神さんの場合、その中でちょっと磨滅したってことがあるんですね。
木原 砂のごとく冷酷な大衆の把握ってことがなかったんじゃないかな。どうもね、ぼくなんかもつい熱狂しやすい方に重みをかけちゃう。仕事をやる上でもその方がらくだからね。ところが、やっぱり天秤がガターンと上がっちゃう。見忘れた冷酷な大衆の復隻なんだ。
康 ただ、ぼくは学校で社会学なんか学んで、大衆についての規格的なものを持ってたでしょ。その点、アートフレンドに入ってずいぶん教えられましたよ。
木原 まあ、まだ呼び屋の仕事もやりやすい時代だったから。とにかくぼくは、その熱狂と冷酷の五分五分ってところでのオルガナイズが大事だし、またむずかしいと思うんだ。皮膜虚実の間っていうか、康君のいう「虚業家」っていうのが、それをやることのように思えるんだが。
康 たしかにアートフレンド全体が興奮状態一つの擬似イベントだったわけですから。
木原 ジャズでいえばノリすぎて下手な演奏になっちゃった。麻薬のみすぎてな(笑)。
康 ジャズ自体擬似イベントだって気がしますよ。終ったとたん、すべてが消えちゃったみたいな。持続的な興奮て感じはしないですね。ただ、それでもその中で本当の興奮が得られればそれでいいわけで、麻薬であろうと何であろうと・・・・・・
関根 なるほど、そりゃそうだ、うん。それにしてもむずかしい。大衆っていうのは欲ばりだし・・・・・・何かこう、そういった欲望もかつぐというか、祈るみたいなところがあるんだよ。祈りね。だからそういう大衆に対しておもねっては駄目なんだ。いっそ道化になるとか、もしくはゴットになるとかさ、大衆にとってのね。超能力だよ。そんな感じがするんだがどうだろ?モダン・ジャズなんてのも、はじめてブレーキ-がやってきた時は、一種超能力のようなものだったといえるんじゃないか。
康 たしかにいまの「超能力」とモダン・ジャズは、同じ平面上にあったようなところもありますね。ポピュラリティの点では疑問はあるけど。
木原 いままでのクラシックからいえば、はじめて羽田に黒人のミュージシアンを出迎えた時、ちょっと驚いたよね。あれ!宇宙人が来たんじゃないかって(笑)。
関根 異次元の世界から来たような感んしあったわけだよな。
康 とにかく、麻薬のんでるミュージシアンが来たってことは、積極的な事件ですよね。
関根 超能力の持ち主としてね。そして能力がないと見きわめると、大衆は切っちゃう。だから催眠術にかけなければ駄目なわけでしょ。
康 いや、催眠術はいつか解けますからね。時間の問題ですよ。
関根 だけどやっぱりぼくは本気で考えなきゃいけないと思うね。催眠術にかけること、ペテン師になること。一般的にはそれはよくないことと思われてるけどさ。
・・・・・・次号更新【国家権力による芸術管理】に続く