麻薬とジャズと大衆芸術(6):康芳夫×木原啓允×関根弘(司会)
国家権力による芸術管理
木原 その仕組みなんだけどね。呼び屋なんかの仕事からいえば、やっぱり組織力、宣伝力、資本力の三つが必要だった。それを兼ねそなえていたのが、以前は新聞社だったわけだ。日本の新聞社は事業部とか企画部というのを持っていて、一種のプロモーターでもあったわけ。そこヘアートフレンドというのが、はじめて独立した形であらわれ、企業として成立した。それでもまだ過渡的で、やっぱり宣伝力、組織力の強い新聞社や放送局をフルに利用した。利用せざるをえなかったわけだよね。
ところが、時は流れて(笑)、ま、康君が催眠術師ってわけじゃないが、そういう過渡的な形をのりこえて、ストレートに資本、組織、宣伝を例の熱狂と冷酷の大衆にうまく結合する方法を発見した・・・・・・
康 いや、いや・・・・・・(笑)
関根 あのモナリザ持ってきたのなんか、どう思う?あれ新聞社でしょ。
康 あれはもう国家権力ですよ。ある意味じゃ国家権力そのもので、新聞社なんてもう刺身のツマですよ。
木原 あれはもう芸術というものへのひどい侮.辱。
関根 ぼくはそれを文化の官僚主義と呼んでるんだが、権力の方からの配給だよな。あれ。配給なんだけど、それを受けとりにゆくだろ。配給を受けないと損みたいにさ。
康 でも、いちがいにそれは大衆操作ともいいきれないな。受けとりにゆく方にミステイクがあるわけです。ミスアンダスタンドですね。それがひじょうに微妙なところなんですね。なにがしかの主体性があるかも知れないし。しかし基本構造は国家権力ですよ。
関根 それを内側から支えるわけね。モナリザみたいに人を動員できるというのは、ほかに何があるかな。
木原 いま中国関係のものがよく動員してるよね。でも政治的なプラスアルファにおんぶしてる。
康 これはもう完全に国家権力の次元ですよ。インターナショナル・ポリティックスになるわけです。
木原 国家権力プラスそれをバックアップするマスコミが一つの磁場をつくりあげている。そこへ熱狂しやすい大衆が引きつけられてるみたいになっているが、そこをね、もっと砂の立場でやるのが今後の課題じゃないかなな。こっちも砂でさ。
康 こっちも砂っていう感覚の次元がもう一度再認識されないとね。
関根 うまくいえないけど、やっぱり非政治的なようでそれが政治になるような・・・・・・つまり非政治的な発想だな、まず。そこんところむずかしいけど、昔なら、江戸時代ならもっとよくわかるんだよ。やっぱり職入の世界だと思うんだよ。そりゃ農民もいるよ。だけど農民ってのは遊ぶこと知らない。いまでも東北にいってつくづく感じるけど、化け物とか、そういうものはいるけど、いわゆる文化ってものはない。”陸奥の文化を訪ねる”なんてのは、ぼくはナンセンスだと思うね。
康 そりゃまあ、文化の定義にかかってきますがね。
関根 やっぱり文化っていうのは余裕だよ。剰余価値ね。ゼニのないところに文化があるわけないよ。ないと断言してもいい。その代り迷信のようなものはあるよ。フォークロアっていうか、つくり話だ。
康 しかしロックとかジャズっていうのはゼニとは関係ないでしょ。ゼニとの関係で生まれてきたもんじゃないですよ。むしろゼニがないからバケツでも叩いて・・・・・・てなところからジャズが始まってる面もあるんじゃないかな。
関根 それは、サボタージュだよ、労動に対するサボタージュ、それともう一つ、レクイエムというか、宗教的なものと重なってくる部分もあるでしょ。黒人というのは東北の農民と同じで、しばられてしぼられて、そこから民間信仰が発生してるのと同じで・・・・・・お祈りだよな、だから貧しいところの方が神さまだらけになる。
木原 だけど逆にいえば、ゼニがあれば文化が育つというもんでもないよな。また呼ぴ屋に関係する話で恐縮だが、国際文化振興会ってのがあって、会長の岸信介なんかが一億円ぐらいポンと出すんだが、あんまり振興しなかったな。
関根 そういう上からいくやつと、そうでないルートがある。新興宗教が日本で猛威をふるうことがあるが、あれは貧しさと切り離せない関係がある。あのルートよ。だから貧乏人のゼニをかきあつめるのが、一番大衆に密着してるやつで・・・・・・
木原 まあ、そういった形のところから始まるのが、モナリザ展なんかのいやらしさをなくする。
・・・・・・次号更新【砂のような大衆の願望---】に続く