ボクらの都知事はネッシー探検隊長!!

ボクらの都知事はネッシー探検隊長!!(慎太郎賛否両論 平成13年6月 石原慎太郎研究員会 より)

ボクらの都知事はネッシー探検隊長!!(慎太郎賛否両論 平成13年6月 石原慎太郎研究員会 より)

実は慎太郎は『「NO」と言える日本』以前に海外マスコミから袋叩きに遭っていた!都庁の職員もビックリの内幕。

解説=康芳夫(プロモーター)

康芳夫氏は『アントニオ猪木VSモハメド・アリ』『オリバー君来日』『アラビア大魔法団』など、奇想天外な企画を数多く手がけてきた希代のイベント・プロモーターだ。

1972年、石原慎太郎が隊長となって『ネッシー探検隊』が結成された。

このプロジェクトのチーフプロデューサ・だった、康氏と石原慎太郎との最初の出会いは、まだ東大在学中のこと。五月祭(東大の大学祭)に、石原氏を招待したことがきっかけだったという。青嵐会を結成し、政界の寵児となっていた石原氏が、ネス湖に探検探に出かけた当時の事情を語る。

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彼が芥川賞を取つた直後にお願いして、五月祭の座談会に出てもらったときが最初の出会いでした。僕は五月祭の企画委員長をやっていたんですよ。座談会のテーマはなんだったっけなあ、たしか『前衛芸術(新しい可能性)』なんてテーマだったねえ(笑)。時代だねえ。

谷川俊太郎さんや亡くなった武満徹さん、岡本太郎さんたちと一緒に参加してくれた。まだ武満さんはデビュー前だったけど、いま見ると、そうそうたるメンバーでしょ。

五月祭で知り合ってから、日仏独伊ポーランド合作のオムニバス映画『二十歳の恋』(62年公開)を一緒に撮ったりもした。フランス側の監督がトリュフォーで、ポーランドがワイダだった。日本側が石原慎太郎。僕は彼の助監督をしていた。石原さんとは、そういう縁です。

僕が興行の世界に入ったのも、石原さんのお陰といっても過言じゃあないんだ。神彰さんの奥さんは有吉佐和子さんでしょ。有吉さんと石原さんは非常に仲が良かったから、有吉さんを紹介してもらい、それでこの世界に入った。そういう意味では恩人ですよ。それからは、僕が関わったボクシングのパンフレットに寄稿してもらったり、『インディ500レース』にも原稿をもらったりしていた。

・・・次号更新に続く