小説『少女地獄』より火星の女(夢野久作)・・・連載13

『血と薔薇』1969.No4 エロティシズムと衝撃の綜合研究誌

『血と薔薇』1969.No4 エロティシズムと衝撃の綜合研究誌

私は小さい時からノッポと呼ばれて居りました。今の母が生みました腹違ひの妹が二人ありますが、二人とも普通の背恰好の女ですのに、どうして私ばかりがコンナ身体に生れ付きましたのか不思議でなりませぬ。もっとも実父の話によりますと、私が生まれました当時は六百匁あるか無しの、普通よりもズット小さな、月足らずみたやうな虚弱な赤ん坊だったと申しますが、それが五ツ六ツの頃からグングン伸び初めました。初めて小学校へ入りました時にチャプリン鬚の受持の先生が私を見て思わず、

『ホオ――。大きいなあア――』

と笑はれましたが、私は子供ながら其のチャプリン鬚の先生の笑ひ顔に一種の恥辱を感じました。私が、私自身に就いて恥辱を感じましたのは此時が初めてだったと思ひます。

私はそれから後、色々な意味で、かうした恥辱を受け続けて参りました。

その小学校の校長先生も私を初めて見られた時に同じやうな・・・・・・それでも気の毒そうな笑ひ顔をされました。さうして私の名前を直ぐに記憶えられました。それから後、ちょっと来られた視学官の方も、すぐに私の名前を記憶して行かれたやうですが、それは私の成績が作文と、習字と、図画と、体操を除いては、級の中で一番末席だったせいばかりではなかったやうに思ひます。

私の名前は、すぐに全校の生徒に知れ渡りました。

『ノッポの甘川歌枝ん坊――オ・・・・・・
梯子をかけてエ――髪結ふてエ』

と上級の男生徒が遠くから笑ったりしました。私は気の弱い児でしたから最初のうちは泣いて学校に行かないと申しましたが、そのうちにダンダン慣れて来て、どんなにヒドイ事を云はれても淋しく笑って振返る事が出来るやうになりました。

私が一番モテたのは運動会の時でした。

私は二年生ぐらいの時から、六年の男子の中の一番早い生徒でも負かすくらい走れましたので「後世畏る可し」といふ標題と一緒に、私の写真が新聞に出たこともありますが、その真夏の太陽の下で撮られた私のシカメ顔が又、あんまり可笑しいと云って、私の両親までが腹を抱へて笑ひましたので、私は二、三日、鏡ばかり見てはコッソリ泣き泣き致しましたが、あの時の情なかった私の思ひ出を話しましても、どなたが同情して下さいましたでせう。もう一度腹を抱へてお笑ひになるばかりだったでせう。

私はまだ物心付かない中から、人に笑はれる為に生まれて来た、醜い、ノッポの私自身を知りつくさなければ、ならなかったのでした。

私が尋常六年頃から新体詩や小説を読み耽るやうになったのは、そんな悲しさや淋しさが積り積ったせいでは無かったかと思ひます。つまり私は皆様のお蔭で、人並外れて早くから淋しい、一人ポッチの文学少女になってしまったのでせう。

・・・次号更新【小説『少女地獄』より火星の女(夢野久作)・・・連載14】に続く