原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

異性の恣意的自由意思とは、いいかえれば異性のサジズムということになる

では、鞭打はマゾと結びつかないか、という設問になるが、もちろんそんなはずはない。異性から受ける痛苦のほどは残酷であればあるほどよろしいこともまた論をまたない。ただ、その形態をとるのは、それは一方的な、異性の全権力的(オールマイティ)な、恣意的自由意思に完全に従属させられる義務の証しとして、つまり凌辱感の証左を肉体に確認する意味においてそれはマゾヒズムとなるのである。そこにおいて不可欠なのは、異性の恣意的自由意思の保証である。相互プレイではマゾにならないし、こちらの側からの示唆や要請によるものであってもならないのである。

異性の恣意的自由意思とは、いいかえれば異性のサジズムということになる、サジズムはもともと本来の自然本能であり、その触発となる媒体として、自然裏に相手の本能を内側から誘発させる、あえていえば、凌辱をとおし、女性のサジズムを連鎖反的に誘爆させていく心理的経過を説明すろことでもある。凌辱は凌辱自体に目的があるというより、そのことを手段化して、内在的・無意識裏の女性サジズムに点火するを得るのが本義である。

・・・原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉:『血と薔薇』1969年 No.4より・・・次号に続く