ニッポン最後の怪人・康芳夫

知の巨人(別称 痴の虚人)立花隆君を慎んで追悼する

我が友、立花隆君が遂に亡くなった。

同君と小生の交友関係は実に50年に亘って続いたことになる。

週刊文春2019年12月26日号「私の読書日記」で実に彼らしく怪友「康芳夫」即ち小生に関してふれている。「私の読書日記」に関して彼に手紙をしたためたが以下全文を再録する。

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立花隆大兄御中

前略

しばらくご無沙汰しております。

貴兄いつも御健筆を振るっていらっしゃるので楽しみにしています。

12月26日号『週刊文春』「私の読書日記」も往事渺茫楽しく拝読しました。

『血と薔薇』第四号、平岡正明責任編集掲載『家畜人ヤプー』にふれていないが残念でした。

なお、約50年近く前の出来事なので貴兄の記憶違いと思われる箇所ありますので念の為書き添えます。

1.誤:呼び屋見習いの東大生・康芳夫

正:呼び屋見習い東大卒・康芳夫

が正しい表現です。

2.誤:「楯の会」の連中がたむろしていたことがあり

正:森田必勝をリーダーとする「楯の会」の連中がたむろしていたのは『血と薔薇』編集部ではなく神彰氏と小生が訣別した後、小生が設立した「創魂出版」で『血と薔薇』編集部と「楯の会」は無関係です。

以上、老婆心なから書き添えました。

今度共よろしく。

草々 康芳夫

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彼は約50年前に文春入社。週刊文春に配属。すぐ下に今や日本のタカ派論壇のリーダーと目される花田紀凱君(小生の最初の刊行本『虚業家宣言』ゴーストライター)が、更に上には文春誌史上最も有名なライバルとされる東大同期文春同期のタカ派頭目の田中健五、ハト派頭目半藤一利がいた。

彼はわずか3年で文春を退社し浪人をきめこんだが、当時小生が創刊した『血と薔薇』編集長に彼を抜擢した。

その頃の立花隆は一部の文春編集者を除いてはまったく無名の存在だったのだ。三島由紀夫監修、澁澤龍彦責任編集による『血と薔薇』は出版界の注目を浴びてスタートすることになるが、澁澤龍彦と彼が折りが合わず彼は編集長就任を前にして『血と薔薇』編集部を去ることになる。

この直後、かの田中健五月刊文春編集長が彼の才能を信頼して『田中角栄研究』の執筆を全面的に彼に任せた。

その結果として安倍前総理の100倍の人気と実力を誇った田中元総理を現役の総理の座から正にペンの力一本で引きずり落とすことになり、彼の名は一躍グローバルに知られることになる。

正に今世に名高い「文春砲」の実質的第1号となったのだ。

ロッキード事件はその約2年後の事件である。

ところで、彼の約60冊に及ばんとする著作物の記念すべき第一号はいかなるテーマについてであったかをご存じの方は非常に少ないのではないか。それは実に当時ごくわずかの専門家が注目していた「エコロジー」そのものであった。

四谷の小料理屋で開かれた出版記念会の席上、小生が最初のスピーチを任され小生臆することなく彼の才能そのものである高度の意味での器用貧乏地獄に落ち込まない様に忠告し彼は苦い顔をして小生の発言を聞いていた。今の彼が「痴の虚人」とも揶揄される一因でもある。

彼の著作は前述の「エコロジー」に始まって総理のスキャンダルから農協問題、宇宙計画に及んだが「血と薔薇」編集長就任に関するトラヴルに関してはノーコメントを通したままだ。敢えて異色作と云えば『日本共産党研究』、『中核VS革マル』、埴谷雄高(評論家)、武満徹(作曲家)インタビューと云ったところか。

立花隆君、安らかに眠れ。近い内にあの世で会って二人で静かに杯を酌み交わそう。

草々 康芳夫

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P.S.彼に関しては返す返すも残念なのは、立花隆『血と薔薇』編集長による『家畜人ヤプー』掲載が実現出来なかったこと。若し実現していたなら戦後出版史上スリリングな事件となったはずだ。

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