使ったのは曙書房用箋

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

天野氏がチラつかせた原稿が本物でない証拠を、もう一つ挙げよう。

私と文通を続けていたとき、沼氏から傑作な手紙をもらったことがある。沼氏が手紙に書いていわく(大意)、

「吉田社長というのは大変ケチな方です。ある寄稿家が吉田氏に対し『早く原稿料を払ってくれないと原稿用紙も買えない』と催促したところ、なんと曙書房の社名入り原稿用紙を五百枚送ってきたそうです。もっとも、私も曙書房の原稿用紙を使用していますが、これは原稿料を催促したからではありません」

すなわち、沼正三は「曙書房用箋」に書いていたのであって、「新潮社用箋」に書いていたわけではないのである。

百歩譲って、天野氏がチラつかせたあの原稿が本物だとしよう。ここでいう「本物」とは、沼正三が書いたオリジナル、というだけの意味で、沼正三=天野氏であっても、今は問わない。

すると、吉田社長が灰にしたはずの原稿とこの原稿と、正副二通なければいけない。当時はゼロックスだのリコピーだのがふんだんに出回っていたわけもないから、手書きで二通の原稿を書くのでもなければ、例のカーボン・ペーパーをあててコピーを作成する手段しかなかったはずである。

しかるに、沼正三はつねにペン(万年筆かつけペンかは不明だが)で原稿を書いた。カーボン・コピーの作成にペンが役立たずであることは、今さら述べるまでもあるまい。

次に、天野氏の主張している「倉田氏=アイデア提供者」説を検討しでみよう。

天野氏はインタビューに答えて、次のように語っている。

<倉田判事とは、同判事が長野家裁・地裁飯田支部にいたころ、文通を通じて知り合った。「家畜人ヤプー」の構想は、倉田判事を含め数人の知人とそれぞれ、ユートピアを語り合い互いに啓発される中で「自然に」浮かんだ。同判事も当時「奇譚クラブ」の読者だった>---毎日新聞十月七日付

天野氏には、複数のブレーンが存在したということらしい。が、氏は、これらブレーンをどうやって集めたのであろうか。当時、昭和三十年前後の時代背景を考えていただきたい。いわゆる”同好の士”を何人も集めることが、どれほど至難なことであったか。

実をいうと、私も”同好の士”を募り、マゾヒズム研究の場を持ったことがある。昭和二十九年頃のことだ。八人がこの集まりに参加してきたが、もちろん、その中には倉田氏も天野氏もいなかった。

私の場合、『奇譚クラブ』誌上に「同好の士求む」といった広告を出すという、当時としてはいささか大胆な方法によって人を集めたのだが、私以外に同様の広告を出した者はいない。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)12月号:「家畜人ヤプー」事件 第二弾!倉田卓次判事への公開質問状:森下小太郎・・・連載23】に続く