AP Archive:Muhammad Ali to fight Mac Foster in Tokyo.

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九月八日、記者会見の当日である。

前の晩、一日前にカリフォルニアからやってきたフォスターをロッキーは『ベニハナ』に連れ込み、記者連中を呼んで、ドンチァン騒ぎ、まるで自分がプロモーター気取りで、いい気になっていた。

今日も、あの調子でやられたんじゃ、かなわないと内心、私は気がかりだった。案の定、ロッキーは早々とロールスロイスを連ねてニューヨーク空港まで、クレイを迎えに行っちまっている。

やっとクレイ一行が到着。

だが、ここでまたまた難問が持ち上がってしまったのである。

クレイは記者会見の前に一万二千ドルを払え、それでなければ記者会見には出ないと強硬に申し入れてきたのだ。当初二万ドルと言っていたのを、結局、私が一万二千ドルに値切ったので(後で払うという約束をとりつけていた)、かなり頭に来ていたらしい。これ以上は頑として譲らんぞという構えである。

一方、ロッキーの方も、かなり、ナーバスになっていて、クレイがニューヨークまで来ていても会見が終わるまでは払えない。この目で見、この耳で聴くまでは、と、こちらも頑として譲ろうとしない。

私は間に入って弱ってしまった。とにかく人の金で商売しようというのだから、こういう場面に追い込まれたことはたびたびあるが、このときほど緊迫した事態は、私にとっても初めてだった。

会場の五番街『ベニハナ・パレス』にはすでに続々と世界中の新聞記者、テレビ各社が詰めかけて来ている。彼らに内情を悟られたら、どんなことを書きたてられるかわかったものではない。それでなくても猟犬のように、ニオイに敏感な連中ばかりなのだから。

私は記者たちを待たせたまま、必死になって、ロッキーを説得し続けた。

渋り続けるロッキーを追いたてて、パークアヴェニューの東銀支店に金を取りに行かせ、帰って来たときには、もう予定の時間を四十分も超過していた。

記者会見は大成功だった。

さすがにクレイは千両役者である。

「私はつつましやかで平和を愛好する日本人が大好きだ。だから、この機会に日本に四週間ほど滞在して日本をよく知りたい。フォスターとの試合はほんの肩ならし、十回までにKOする」と公式コメントを発表したあと、大声でフォスターを「臆病者」とののしり、怒ったフォスターと殴り合いを始めたのだ。

記者たちは沸きに沸いた。

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プログラム(P4)

プライム・オーガニゼーション・インターナショナル・スタッフ

チーフプロデューサー 康 芳夫

これは芸術です

これからここで繰り展げられようとしているのは、一つの競技会ではなく、長年の間私たちがこの目でじかに目撃することを待ち望んできた芸術の祭典です---そう私たちは思っています。

私たちが初めてカシアス・クレイの姿に触れたのは、8年前、彼がリストンの持つ世界タイトルに挑戦したときでした。一目見た瞬間、これはタダモノではないということを、私なちは覚りました。私たちはボクシングに関しては門外漢でしたが、リングの上を舞うように縦横自在に往き来するその動きを見ただけで、彼が一般のボクサーの概念をはるかに超えた存在であることが感じられたのです。

彼にあっては神経と肉体が完全に一致しており、その動きは機能的な極限に達しています。彼の言葉どおり、190cmの巨体が、チョウのように舞い、ハチのように刺す。これはまさしく芸術以外のなにものでもありません。