『血と薔薇』1969.No4

『血と薔薇』1969.No4
エロティシズムと衝撃の綜合研究誌

特集=生きているマゾヒズム より「いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート」:平岡正明(wikipedia)

※1969年2月、康芳夫の誘いで天声出版に入り、澁澤龍彦の後任者として『血と薔薇』第4号(天声出版)を編集

◆いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・(連載6(最終回))

陰画としての議論もでてきた。彼女は警察のはなったおとりではないのか。ほんとうは彼女の身許はわかっていて、警察は一〇一号を鉄仮面にしたてあげ、世論を学生に不利なように操作しようともくろんでいるのではないか、など。

多くの議論がうまれ、菊屋橋一〇一号が、陰画、陽画をあわせて、彼女の黙秘を軸に見えない結び目を獄房から投げつづけていることを俺は知った。それは、たとえばスキャンダルがすえたにおいのなかに権力の構図を徐々に浮上させてくるのとはちょうど逆に、あの女はよく戦っているぞ、沈黙のたたかいというたいしたしごとをやっているぞという確信を外側にいる人間に共振させ波及させてくるのであった。

一月十八、十九日の両日、東大構内および神田解放区で逮捕・起訴された学生五一七名。うち、前非を悔い、コロんで釈放されたもの四〇余名。四七〇余名が抵抗をつづけ、黙秘をつづけるもの九名。九名も黙秘している。

「一九四三年三月の『司法保護資料』によれば、共産主義者だけをとってみても、総数二、四四〇名のうち転向一、二四六名、準転向一、一五七名、非転向三七名となっている。非転向が三七名も!」---谷川雁「転向論の倒錯」

感嘆符のうちかたが逆になってきている。戦前のケースでは二、四四〇名中三七名も転ばなかったかに感嘆符をうち、砦と解放区では五一七名中四〇余名も転んだかに感嘆符をうつ。

谷川雁の「転向論の倒錯」は、転向を精神の力学の見地からとらえたすぐれた論述である。これは「だれのてのひらにも他人の侵すことのできない一滴の禁漁区」が残されていて「一つはかつての偽装転向を純粋化した形で考える際の降服無限大、敗北ゼロという道であり、一つはグァムの兵士のように敗北無限大、降服ゼロという道」によって掌の禁漁区を守ることができるとした「私のなかのグァムの兵士」とともに、すぐれて実践的な転向論であると---くやしいが---認めざるをえない。菊屋橋一〇一号は敗北無限大、降服ゼロの方式をとっている。彼女の沈黙は権力を支えるのではなく、権力を解体するような方向をもっている。谷川雁は転向論のおとし穴の第四項目にこうかかげる。

「いわゆる『転向』とはかかる権力中層と同位の転向者が合作してこしらえあげた心理的な発明品だということである」

「かかる権力中層と同位の転向者」とは、戦前の、検事も中位エリート、党員も中位エリートで、たまたま天皇制の方へころんでいてもコミンテルンの方へころんでいても出身階級はどちらもプチブルの一つ穴ということである。権力は人を強制して沈黙させることはできるが、沈黙をつくりだすことはできない。権力はつねにおしゃべりであって、大衆の沈黙と合作して転向をつくりだすことができない。一般に、強制された限界状況では、敗北無限大、降服ゼロの道が可能である。ここでは、沈黙のマゾヒズムは、対立を解体しない。

黙秘のマゾヒズムは、つごうが悪くなればプイと黙りこくり、あとはひたすら耐えていくようなおよそ啓蒙主義的ではない日本人の心情を、ヴェルコール描く「海の沈黙」のような手口のいい黙秘戦術ではないけれども、おおむね二つの筋に沿って激化させていく予兆である。一つは、自分自身をきりさいて敵を打撃する方法、つまりハンガー・ストライキ。もうひとつは、牢獄を革命の学校にかえるような左翼転向の方策である。すでにそのくらいの青写真はできていることとおもわれる。

・・・【いそぎんちゃくの思想---鶴屋橋一◯一号ノート・・・了】