インディ500=インディアナポリス500マイル・レース

失敗だった『インディ500』

『インディ500=インディアナポリス500マイル・レース』と言えば、世界中のカー・マニアなら知らぬ者がないと言われる大レースである。

一周四キロのコースを時速三百二十キロの猛スピードで二百周し、その荒っぽさは数ある世界のカー・レースのなかでも群を抜いている。毎年、事故のないことは皆無だった。私が記録映画で見た『インディ500』は、カー・レースの概念をはるかに超え、一種の芸術と言えた。

「まだ一度も海外に出たことはない」

そう聞いたとき、私は『アラビア大魔法団』の次はこれでいこうと決めていた。急速にモータリゼーションが進み、年間百五十万台もの車が生産されるようになった日本でも、それは十分、商売になる。ジャッキー・スチュアート、ジム・クラーク、グラハム・ヒルなどは、きっと日本でも新しい時代の英雄となる、そうふんだ。

すぐにインディアナポリス・スピードウェイ社の競技担当重役・ヘンリー・バンクスに連絡をとると彼はこう言った。

「想像もしなかった考えだ。だが、おもしろい」

そして、そのためには三十数人のレーサーの旅費、滞在費、フォーミュラカー運搬費など、しめて四十万ドルのデポジット・マネーが最低条件であるとつけ加えた。

四十万ドル---そのときの『アート・ライフ』にとっては気の遠くなるような金額である。四十万ドルはおろか一万ドルだってあるはずがなかった。しかし、私はあきらめなかった。

昭和四十一年十月九日、轟音とともに『インディ500』日本版の幕は切って落とされた。

前夜、雨が降り、私と神さんは心配で明け方まで眠れずに会場の周辺をうろついていた。もし雨が降れば客が一人も来ない可能性だってあった。雨は夜明けに近づくにつれ、ますます強くなっていく。私は絶望的な気持になっていた。

が、日の出直前、雨は上がった。朝焼けの赤富士が目に飛び込んできた。これはイケるぞ。私は夢中で会場を飛び回っていた。そして耳をツンざくスタートの轟音。事故もなくレースは終わった。

レースそのものはヘンリー・バンクスも驚くほどうまくいった。

だが、案に相違して、客は入らなかった。七万人の入場料で一人平均四千円として約二億八千万円の売り上げ、私は、そう予定していたが、実際には、四万人がやっとだった。

会場として選んだ富士スピードウェイの地の利が悪かったせいもあったかもしれない。しかし、最大の理由は、まだ、もう一歩、日本でカー・レースを開催する機が熟していなかったということだろう。

数年後には日本でも専門のカー・レーサーが登場し、生沢徹、鮒子田寛、黒沢元治などがスターの座についた。そのときまで待っていれば、この企画は大ヒットしたはずである。貧すれば鈍すというやつで、私は、完全にタイミングの判断を誤っていたのである。

「日本のモーター・スポーツ史に大きな足跡を残しました」

という『日本オートクラブ』の塩沢進午代表の言葉が唯一の慰めだった。

起死回生どころか、『アート・ライフ』はこれでまた五千万近い赤字を背負い込まねばならなかった。

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