都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

逆ユートピアの栄光と悲惨・・・20

先にもじり遊びに触れたが、その材料に「靖国」や「九段」がとりあげられているのを見た時、私は、著者の世代が蒙らざるを得なかった内面的傷口の深さをまのあたり眺めたような気持ちがして、しばし暗然となった。もじり遊びによって揶揄・嘲弄される対象は、価値・権威の失墜を目論まれることによって、嘗てそれが高い価値の体系に属していたことを、期せずして逆証明しているからである。この小説が連載された時、既に戦後十年の歳月が経過している。その時、猶「九段」や「靖国」が沼正三の心の暗部に木魂しているさまを眺めて、どうして暗然とならずにいられよう。「邪蛮(ジャパン)」という酒落に笑える者は笑うがよろしい。

---誤解して貰っては困るが、私は何も沼正三が敗戦まで皇国史観の忠実な遵奉者であったなどと言うつもりは無い。だが、いったい誰が、青春期を過ごした時代のイデオロギーから完全に自由であり得ようか?死が確実なものとして眼前に待ち受ける時、おのれの死を意味づける論理の模索以外に、何が精神の関心事たり得ようか?あの最も暗澹とした太平洋戦争の時期に、日本浪曼派が無数の若者の心を強く惹きつけ、死に直結する危険な場所で呪術的勢威をふるい得たのは何故か?---その事情をふり返ってみるだけでも、私の言わんとするところはお分かりいただけよう。イデオロギーの虚妄性は歴峯の断罪に委ねるがよい。だが、その虚妄性によって傷ついた心が暗い口を開く時、そこからまさしく文学の領域が始まる。

・・・次号更新【逆ユートピアの栄光と悲惨:家畜人ヤプー解説(前田宗男)より】に続く

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