『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より
サドマゾと言いづらかった時代
私は一度、天野氏に忠告したことがある。
「お前さん、いいかげんに”沼正三”の名前を使うのやめろよ。あんたには物書きの力がないわけじゃないんだから、天野の名で書けばいいじゃないか。昔の”黒田史朗”(奇譚クラブ時代の彼のペンネーム)で書いたっていい。それはそれで人は読んでくれるんだから、何も他人の名を騙ることないんじゃないか」
新宿の呑み屋でのことだから、一杯入った私はいいたいことをいった。そのとき彼は、「いや、あんたのいうことはよく分ってんだ」
と答えてはいたが、その後も行状があらたまった気配はない。私がこの一文を書く気になった理由の一つも、まさにそこにある。
いま、沼正三の正体を明かす気になった理由の一つに、天野氏の物書きとしてのモラルをあげた。しかし、それがすべてではない。
真の理由は、あの一大傑作『家畜人ヤプー』の続編が読みたいという点にある。なにしろ『ヤプー』は未完のままである。
たしかに、連載当時、あるいはまた初版本刊行当時の世間は、サドだのマゾだのをまだ許容していなかったから、筆者が身分を秘匿したがったわけも分からぬではない。
たとえば、例の『奇譚クラブ』がどういう受けとめ方をされていたか---。
ある愛読者は、家の近所の本屋で買うのをはばかって、わざわざ汽車に乗り田舎へ”買出し”に出かける始末。またある読者は、発行人である吉田稔民に対し、
「なんとか雑誌タイトル抜きで表紙を印刷できないものか」
と訴えてきたこともある。
その吉田社長にしてからが、同好の士を求めて曙書房を訪れる愛読者には居留守を使って会おうとはしなかった。
サドにもマゾにも関心のない、事業家の吉田氏にしてみれば、「変態と付き合うなんてもってのほか」といったところだったのであろう。
”縛りの大家”団鬼六にしても、「私は縛るのが好きなんです」とは、けっしていわなかった。
ちょうど『ヤプー』初版本が出た頃、団氏はテレビによく駆り出されたが、主婦向けワイドショ-で、スタジオの主婦から、
「団さんご自身、私生活でもサディストなんですか」
と尋ねられたりすると、こんな返答をしていたものだ。
「いや、私はべつに縛りが好きでもなんでもないんですけど、出版社が要求するのであんな小説を書いているんですよ」
これも余談だが、われわれの仲間では「縛り愛好家」を”運送屋”と呼んで馬鹿にしていた。そんなに縛るのが好きなら”マル通”にでも勤めりゃいいじゃないか、というわけだ。
それはともかく、サドにせよマゾにせよ、公衆の面前で「俺はサドだ、マゾだ」とはいいづらい時代であったのは確かである。
しかし、時代は変わった。今『ヤプー』の作者が名乗りをあげたとて、一体どこの誰が非難するというのだろうか。
・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載11:「ヤプー」の著者が裁判官だって!?】に続く