原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇 』1969年 No.4より

原理としてのマゾヒズム<家畜人ヤプー>の考察:安東泉・・・『血と薔薇』1969年 No.4より

マゾヒズムを抜きにして『家畜入ヤプー』を説明することはできない

さらに、アブノーマルを抜きにしてマゾヒズムを語ることはできない。アブノーマルとは何であるのか、有識具眼の多くの先達の幾多の考察がありながら、マゾヒズムとの関連においてあえて愚見を呈してみたい。そのことが「『家畜人ヤプー』におけるマゾヒズム」解明の手がかりとなるからである。

マゾヒズムは、一見、いわれるごとく、受動的潜在的である。これはサジズムの、いわゆる能動的・顕在的であることの、裏返しの裏面である、ということで説明は尽くされるかもしれない。また、そういう理解のされ方が一般上の通念となっている。

マゾもサドも、図式的にはきわめて象徴的に、一本の鞭がその両様を説明するのである。

すなわち、打つ側(能動的)がサジズムであり、打たれる側(受動的)がマゾヒズム、という、明快な構図で区分けされる。一条の鎖、縄があり、縛る側、縛られる側とで分けられ説明される。ここで提示される鞭と鎖の象徴的な意味はにわかにふくらみ、妖しい光を持ち、新しい意義を付与される。それはマゾとサドの境界線上にあって、いずれに指向するかでマゾとサドを示指し、規定する、重要な語り手の任務を受け持つ、という理解である。

その通念で理解するとき、すなわちマゾヒズムは、各事典類に単純に記載されているように、「異性から虐待と苦痛を受けることに性的快楽を感じる色情狂の一つ」ということになる。マゾヒズムという名称の名づけ親、クラフト・エビング自身、基本的にはマゾヒズムをそのように理解した。

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