証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第3話「「五月祭」でジャズ・フェスティヴァルをプロモート」:小川隆夫(ARBANより抜粋)
——音楽との出会いはどんなものでしたか?
聴き始めがなにかは覚えていませんが、当時はモーツァルトが好きで、よく聴いていました。
——ジャズとの出会いは?
東京大学に入って三年の(60年)「五月祭」で企画委員長をやることになって、そのときに久保田二郎(注17)君、俗称クボサンを司会に使って、モダン・ジャズのフェスティヴァルを東大で初めて開いたんです。高校時代から新宿のジャズ喫茶に入り浸っていたけれど、あれが本格的な関わりの最初です。あのときは三保敬太郎(p)君とか宮沢昭(ts)さんとかを呼んで。
久保田君はちょっと厄介な男だったけれど、立教ボーイで、ジャズがわかっているということではたいしたもんでした。あのころは植草甚一(注18)さんや、評論家では野口久光(ひさみつ)(注19)さんとかがいましたけど、久保田二郎は本格的にジャズがわかっていた最初の男だったとぼくは解釈しているんです。ほかのひとがどう取るかは別にしてね。そばで見ていたから知ってるけど、植草さんなんかは彼から教えられた部分が非常に大きい。大橋(巨泉)(注20)君もそう。
——久保田さんとはどうやって知り合ったんですか?
彼は『スイングジャーナル』誌の編集長だった岩浪洋三(注21)君の紹介だったかな? 久保田君を司会に使ってフェスティヴァルは開いたけど、その提案に対して教授会が拒否してきたんです。「ジャズは社会的に認められていない」というのが理由です。
——アート・ブレイキー(ds)のジャズ・メッセンジャーズが初来日して、日本中がジャズ・ブームになるのは翌年(61年)ですものね。ちょっと早すぎた。
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