証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第5話「入国許可が下りなかったマイルス・デイヴィス」:小川隆夫(ARBANより抜粋)
——AFAでは成功した興行もあれば失敗もあったと思います。
いろんな種類の興行をやっていましたから、失敗もいっぱいあります。その中でジャズは繋ぎです。ボリショイ・サーカスとかのほうがぜんぜん規模が大きい。
——ロリンズは問題なく入国できたということですが、ジャズ・ミュージシャンの場合、先ほどの話にもあったように、ドラッグの問題や対策も必要でしたか?
リーダーについては事前にチェックしますが、メンバーの中にヘヴィーなヤツがいると、これはどうしようもない。クスリを調達するのが厄介だったですね(笑)。横浜の黄金(こがね)町に密売組織があって。ぼくはやらないけど、いまのほうがよっぽど入手は簡単ですよ(笑)。
——入国した時点で、公安が見張っているようなことはなかったんですか?
前科があればそうかもしれないけど、そこまではなかったですね。でも、だんだん厳しくはなってきました。ぼくがマイルスを呼ぼうとしたのは68年のことだけど、ロリンズのあとに彼を呼ぶ話になったんです(64年の初来日)。
そのときは法務省筋の情報で、「場合によっては入国できないかもしれない」と。それで、ダミーとして、こちらが段取りをして本間芸能(注35)に呼ばせたんです。このコンサート(注36)は大成功でした。ところがそのあとにぼくのところでマイルスと契約して呼ぼうとしたら、今度は入国の許可が下りなかった。
ソニー・レコード(当時はCBS・ソニー)がマイルスのアルバムを出していた関係で、そのルートから契約して、前売り券は4時間で売り切れちゃった。ところが、ギリギリになっても入国許可が下りない。最初から危ないのはわかっていたけど、当時は福田赳夫(注37)先生が幹事長で、同じ派閥に西郷隆盛の孫、西郷吉之助(注38)が法務大臣でいたんです。これがきわめていい加減で(笑)。「とにかく500万用意してくれ」とせがまれた。当時としては大金ですよ。年明け(69年)からツアーが始まるのでギリギリのタイミングでしょ。法務省の仕事納めが29日かな? だけど許可が下りない。
——後始末はどうしたんですか?