証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第1話「中国人医師の父親と」:小川隆夫(ARBANより抜粋)
——まずはお父様のことから聞かせてください。
父(康尚黄:こうしょうこう)は中国人で小川さんと同じで医者だったんです。母親の巽(たつみ)は日本人です。ぼくは1937年5月15日に父親がやっていた神保町の「西神田医院」で生まれました。わかりやすいんで神保町といってますが、正確にはその境、西神田2丁目10番地。そこで戦前に父が内科と小児科の医院をやっていて。戦後は昭和通りの「三笠会館」のとなりで「東銀座診療所」を開業していました。
——中華民国駐日大使の侍従医もされて。
厳密にいいますと、蒋介石(注1)政権最後の駐日大使が許世英(きょせいえい)(注2)というひとで、父とは同郷だったので、大使の侍従医になったんです。当時、中国人の医者って日本にほとんどいなかったもんですから。
父の父親は陶器の仕事で成功していたんですが、血気盛んで、当時勃興してきた孫文(注3)派の革命運動に身を投じて。それで、清王朝の女帝(西太后)(注4)に追われて日本に逃げてきた。日本では法律学校、いまの法政大学に留学生として籍を置いていましたが、父が七つのときにお金だけ置いて、祖父は帰ってしまったんです。これは「可愛い子を獅子が千仭(せんじん)の谷に突き落とす」やり方だったようです。それで父は慶応の幼稚舎に入って上までいき、医学部を出て、昭和6年(31年)に「西神田医院」を開業します。
そのあと駐日大使の医者になりましたが、蒋介石政権と日本政府が断交して、国民政府が引き揚げちゃった。新しくできた南京政府(注5)、これは勝手な呼び方だけど、中華民国の、日本が認める政府の大使館の医者になって。父はそうとう悩んだと思うけど、断れば日本政府に逮捕されるのは明らかで、選択権などなかったから、そうしたんでしょう。
ただし中国大使館からバターとか牛乳、ウィスキー、牛肉とか、なんでも自由に手に入ったから、戦時中はいい思いをしました。「揚子江」ってわかります? いまは集英社の近くにありますけど、当時はうちの一軒おいてとなりで。それと神保町すずらん通りの「維新號」。みんなうちの患者さんだったんです。あの時代ですから、中華料理屋に材料がない。父が肉とか魚を持っていき、料理したものの半分をもらって帰ってきた、なんてことがよくありました。
——ところが戦後になって、たいへんなことになる。