『血と薔薇』
エロティシズムと残酷の綜合研究誌
澁澤龍彦 責任編集
創刊号 Oct.1968No.1
All Japanese are perverse
三島由紀夫
われわれの二元論的思考の薄弱は、両性の対立を扱った近代文学の傑作が、ほとんど皆無である点からも、首肯されよう。
ストリンドベリも、近くはオールビーも、日本人には馴染のない、いたづらに苛烈な「両性の対立」の誇張と考へられた。われわれの先人は、女をして女であることを主張させることが、いかに社会の男性的理智的原理を崩壊させ、社会をアモルフなものに融解させてしまふか、といふ洞察力を持ってゐた。女は女であることを決して主張しないことによって真の女になり、そこにこそ真の「女らしさ」が生ずるといふ女大学のモラルは警抜で、シニカルな、水も漏らさない社会的強制(コンパルスン)であった。
つまらぬ風俗現象ではあるが、現代の風潮を、「女性の男性化、男性の女性化」といふ言葉でとらへようとする論者の脳裡にはこの古いモラルが、裏返しの形で貼りついてゐるのである。現 代の風潮は、女が女であることを主張し、男は男であることを主張しない、といふだけの話であり、むかしの日本では、男が男であることを主張し、女は女であることを主張しなかった。
真の根元的な、妥協をゆるさぬ両性の対立は、男が男であることを主張し、女が女であることを主張する、といふ状況からしか生れないのである。もちろんそんな状況は、人類に平和と幸福をもたらすものではない。
・・・次号更新【All Japanese are perverse(三島由紀夫)・・・連載4】に続く