『血と薔薇』創刊号 Oct.1968No.1

『血と薔薇』
エロティシズムと残酷の綜合研究誌
澁澤龍彦 責任編集
創刊号 Oct.1968No.1

All Japanese are perverse

三島由紀夫

さて、perverseの話に移らう。

日本人は、相手(パートナア)といふ観念を持たない。武道の稽古の相手は敵手であるが、拳闘のスパーリングの相手はスパーリング・パートナアなのである。すなはちパートを受持ち、或る役割を演ずる対等者である。この観念のないことが、同性愛やサド・マゾヒズムの「関係」を解明することを困難にし、異性愛のアナロジーでしか見られないまちがった観察を流布させることになる。

たとへば、受身でマゾヒスティックなのは、一般的に女の特性と考へられてゐる。しかし、男が自ら受身でマゾヒスティックであることを好まないといふ確証はどこにもないのみならず性的態度における積極性と軽度のサディズムには、男の社会的虚栄心が作用してゐないといふ証拠はどこにもないのである。社会が容認すれば、トルコ風呂の受身の快楽は、男にとって全くノルマルな、安直なお大尽風の快楽と考へられる。まづ第一に、受身やマゾヒズムといふパッシブな要素を、男女両性の単なる解剖学的形態学的相違のアナロジーでとらへることをやめなければならない。この点でみごとな創見を体系化した人が、稲垣足穂氏である。

第一種、第二種、第三種を通覧する上で、もっともメカニックな分類が可能なのは、Fellatioの種別であると思はれる。これは行為自体はきはめて単純なものであるが、パートナアの差別と、そのおのおのの好む心理的態様の差別によって、次のやうに分けられる。

(1)男Aが女Bと、お互ひに内心これを好みつつ行ひ、しかもAが、受身のBに強圧する形で行ふ場合。

(2)男Aが女Bと、Bはこれを好まないにもかかはらず、敢て行ひ、受身のBに強圧する形で行ふ場合。

(3)男Aが女Bと、お互ひに内心これを好みつつ行ひ、しかも受身のAが、Bをして能動的にこれを行ふやうに強ひる場合。

(4)男Aが女Bと、Bはこれを好まないにもかかはらず、敢て行はせ、しかも受身のAに対して、むりやり能動的に行はしめる場合。

(5)男Aが男Cに対し、相手がこれを好むことを十分承知しつつ、全く受身のCに、この行為を能動的に強圧する形で行ふ場合。

(6)男Aが男Cに対し、Cが全くこれを好まないにもかかはらず、受身のCに能動的に強圧する形で行ふ場合。

(7)男Aが、男Cがこれを好むことを承知しつつ、しかも受身のAが、Cをして女性的能動的にこれを行ふやうに強いる場合。

(8)男Aが、男Cがこれを好まないにもかかはらず、敢て行はせ、しかも受身のAに対して、むりやり女性的能動的に行はしめる場合。

(9)男Aが、男Cの意志如何にかかはらず、むりやりに受身のCに対してこれを敢て女性的能動的に行ふことを好む場合。

(10)男Aが、男Cのこれを好むことを十分承知しつつ、全く受身のCに、この行為を女性的能動的に行ふ場合。

(11)男Aが、自ら受身で、男Cによって、男性的能動的にこの行為を強圧されることを好む場合。

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・・・次号更新【All Japanese are perverse(三島由紀夫)・・・連載5】に続く