灰になったナマ原稿

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

『諸君!』昭和57年(1982年)12月号より

まず、天野氏が「沼正三」ではあり得ないことを示しておこう。

『家畜人ヤプー』の単行本を刊行した矢牧一宏氏(都市出版社社長=当時)から、次のような話を聞かされたことがある。

雑誌に連載された物を単行本にする場合、著者のオリジナル原稿でなく、すでに活字になったその雑誌のページを切り取って印刷所に回すのが普通である。著者が手を入れたいと思えば、それに赤を入れるわけだ。『ヤプー』の場合もまったく同様で、作者の沼氏から、赤の入った『奇譚クラブ』の現物ないしはコピー(この点、矢牧氏の記憶は定かではないのだが、いずれにせよ、手書きのナマ原稿ではなかった)が届けられてきた。

ところが、その赤の字が、天野氏の筆跡とはまるで違っていたという。

さらに都市出版社は、このあと豪華本を刊行するのだが、普及版にはなかった「あとがき」を添えることになった。この「あとがき」のゲラに入れられた赤の字も、やはり天野氏の筆跡ではなかった。双方の赤の字は、同一人物の手になるものだったと矢牧氏は記憶している。

読者は、あるいはこうおっしゃるかもしれない。「オリジナル原稿の筆跡を見れば、すべてカタがつくのではないか」と、まさにその通りである。天野氏も、そこに思いを致したとみえて、TBS『報道特集』の取材を受けた際に『ヤプー』の原稿を証拠品として示している。ところが、その原稿の表紙には「家畜人ヤプー第二十九章」---。

これが何を意味するかは、前稿をお読みいただいた読者なら、すでにおわかりだろう。

『奇譚クラブ』に連載された『ヤプー』は、第二十八章で終わっており、未完のままである。ところが、その後『ヤプー』の続編と称するシロモノが雑誌『都市』の別冊に掲載され、『奇譚クラブ』の読者ならびに関係者を驚かせた。この『続・ヤプー』が、もとの『ヤプー』より遙かにトーン・ダウンしており、とても同じ作者の筆になるものと思えなかったからだ。

天野氏がTBS記者に示した「第二十九章」というのは、まさにこの『続・ヤプー』なのである。そこに記された文字が天野氏自身の筆跡であったというのは、だから当然すぎるほど当然な話なのだ。

しからば、というわけで、TBSの次に取材した『週刊文春』が、『ヤプー』第一章のオリジナル原稿を天野氏に要求したところ、天野氏は「これ、この通り」とばかりに自筆原稿を開陳なさったらしい。

ただし、その原稿用紙に同氏め勤務する出版社の社名が入っていたのがいけなかった。

<『ヤプー』第一回が『奇譚クラブ』に発表されたのは、昭和三十一年の十二月号であった。そして天野氏が現在の新潮祉に入社したのが、昭和四十二年。『ヤプー』めオリジナル原稿が新潮社の社名入りというのは、ちょっとヘンだ>---週刊文春十月十四日号

今日の事態を予期して、天野氏が『ヤプー』をせっせと書き写したのだとすれば、まことにご苦労さま、というしかない。

では、『家畜人ヤプー』のオリジナル原稿はどこにあるのか。結論をいえば、もうすでにこの世にはないのだ。

沼正三の正体を知っているのは、おそらく三人だけであろう。天野氏と私と、それから『奇譚クラブ』の版元である曙書房の吉田稔社長(当時)である。この吉田社長は、残念ながら今年の一月に亡くなったが、生前、吉田社長が私に語ったところによれば、連載開始にあたって沼正三は、「ナマ原稿はすべて焼却してほしい」といってきたらしい。

吉田社長はいわれた通りにした。そのため自ら一字一句書き写して印刷所に入稿したというから、沼正三のオリジナル原稿は、もはや灰の形でしか残っていないことになる。

従って、仮にも『ヤプー』のオリジナル原稿の所有者が存在したとすれば、その人物は「私はニセ者です」との看板を首からぶら下げているのと同じである。「新潮社」の社名入り原稿用紙をチラつかせる天野氏の行為は、笑止干万というべきであろう。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)12月号:「家畜人ヤプー」事件 第二弾!倉田卓次判事への公開質問状:森下小太郎・・・連載22】に続く