家畜人ヤプー【ポーリンの巻】より

暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎・・・その1

わたしは『家畜人ヤプー』をさまざまな版で、すでに三度読んだ。今回の解説のために読むのが四度目ということになる。

前回、「完結篇」刊行時、わたしは時評に次のように書いた。

「・・・・・・。この膨大で精密なマゾヒズムのロマンにはいくつもの謎がある。その最大のものは、この作品がわたしたちが慣習上『文学』と呼んでいるものとは微妙に異なっていることだ。

『ヤプー』は未来の架空の帝国イースを舞台にした逆ユートピア小説であり、白人が支配するその女権制社会は厳格な階級制度が律する『差別の帝国』として描かれている。そしてその最底辺に日本人を祖先とする『家畜人ヤプー』が存在する。わたしたちがタブーと呼んでいるもので『ヤプー』で冒されないものは一つもない。また、タブーではなく社会的な禁止で、それが破られないものもない。排泄が賛美され、奇形がなぶられ、下層に属する階級の民は徹底的に愚弄され、貴族は食用の家畜人の苦痛を楽しみながら美食に励む。だが、ここには神聖冒漬の高揚感は存在しない。なぜなら、抵抗する側に『良心』が存在しないからだ。

わたしたちはタブーや社会的な禁止に『文学』の形で抵抗することができる。そういう場合、たいていの『文学』は『良心』によってタブーや社会的な禁止に抵抗する。たとえば、性的な禁止---マゾヒズム、近親相姦、ホモセクシュアルの禁止---を破るのは社会の拘束を免れ、最終的な個人の自由を獲得するためだとされる。だが、ここに一つ解くことのできない問題がうまれる。社会的な禁止に個人の『良心』を対置することはできても、タブーに個人の『良心』を対置することはひどくやっかいだということだ。

・・・暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎 より・・・続く