家畜人ヤプー【ポーリンの巻】より

暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎・・・その3

「文学」という世界を、一つの小宇宙、銀河系星雲のようなものと考えてみる。すると、その中心には膨大な星々の群れがある。それら、わたしたちがふだん「文学」と呼びならわしている作品群は、日々生産され、また日々消費され、ほとんどのものが瞬時に塵のように消え去り、ごく少数が記憶に、また記録に残る。確かに、小宇宙の中で、塵から次々と無数の恒星が生まれて光り輝き、成長し、やがて死滅し、また塵に戻ってゆく。けれども、中心部で星たちが押し合いへし合いする小宇宙の外縁へ向かってゆくに従い、星の数は急速に減ってゆく。小宇宙の、巨大な重力圏が果てるあたりでついに星も、またその星を生み出す塵も消失し、そこから先には絶対零度の真空がただ無限に広がっているばかりだ。そんな小宇宙の果てに孤絶して存在する星。『家畜人ヤプー』はそのような作品である。けれど、数は少なくとも、『ヤプー』に似た星もまた存在する。本質的に孤独な作品、「文学」から遠く離れようとする作品、共同体に所属することを拒んだ作品は他にもある。たとえば、マルキ・ド・サドのいくつかの作品、とりわけ『ソドム百二十日』のような作品である。同じような性的放恣、、同じような乱倫、同じようなタブーの破壊、そして同じような散文的明晰さを所有しながら『ソドム百二十日』と『家畜人ヤブー』は正反対のベクトルを描いている。それは、いうまでもなく、サディズムとマゾヒズムというベクトルである。

ところで、サディズムについては自信をもって論じたフロイトも、マゾヒズムについては困惑を隠すことができなかった。

・・・暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎 より・・・続く