都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎・・・その2

タブーと『良心』について明快で決定的なことをいったのはフロイトである。

《では『良心』とは何であろうか。言葉が証明するところによると、それは人がもっとも確実に知っていることの一つである。多くの言語においては、良心という表現は意識という表現とほとんど区別されていない。・・・・・・中略・・・・・・タブーとは良心のおきてであって、これに違反すると恐ろしい罪悪感が生じるが、罪悪感とは、その由来は不明であるのに、自明のこととされているのである》(改訂版フロイト選集6『文化論』の「トーテムとタブー」吉田正己訳)

タブーが、社会が個人に刻みこんだ『良心』のおきてなら、タブーを破るのもやはり個人の『良心』のおきてなのだ。戦っているのはふたつとも個人の『良心』であり、それはどちらがほんものの『良心』であるかを証明するための戦いである。そして、その『良心』の由来をどちらもほんとうは知らない。フロイトはその由来を、共同体社会を存続・成長させるためはるか遠い過去に個人の内部に強制的に刷り込まれた禁止事項に求めた。だから『良心』はどれほど個人的に見えようと、社会的であることを免れることはできない。

『家畜人ヤプー』がほとんどすべての『文学』と訣別するのはこの点だ。『ヤプー』は作者が属さねばならないとされる共同体が個人に刻みこんだ『良心』のおきて、タブーを破る。

だが、それは別な「良心』のおきてによってではない。なぜなら、別の『良心』はまた別な共同体を呼びよせるからだ。「良心』と「良心』が個人内部で葛藤して生まれる熱はこの作品にはない。そこは冷たく、中間的で、時間のとまった世界だ。ここまで来て、ようやくわたしたちは『ヤプー』の世界の孤独な本質に触れることができる。どんな共同体にも所属することを拒んだ作者がとった道は、その世界をわたしたちの世界から離陸させ遠くへ旅立たせてしまうことだった。だが、なにを悲しむことがあろう。自らを埋葬することこそマゾヒストにとって最高の喜びに他ならないのだ」

もちろん、ここで書いた内容に変更を加える必要はない。けれども、いま読み返してみると、まだ論じ尽くしていないことがいくつもあることを、わたしは痛切に感じる。『家畜人ヤプー』の謎は広く、そして深い。

・・・暗黒星雲の彼方に:高橋源一郎 より・・・続く