『血と薔薇』
エロティシズムと残酷の綜合研究誌
澁澤龍彦 責任編集
創刊号 Oct.1968No.1
All Japanese are perverse
三島由紀夫
こんな滑稽な分類法から、人はすべてが表象の問題だと気づくであらう。Fellatioのやうな行為は、気むつかしい清教徒的非難を別にすれば、大した罪の意識もなしに、ふつうに行はれてゐることであるが、そこにはあらゆるものの萌芽があり、その表象は千変万化で、しかもどんな極端な変質の想像上の比喩にもなりうるのである。
右のやうな分類からわかることは、サディズムが特に男性的特質でもなく、マゾヒズムが特に女性的特質でもなく、男性の側に限って云へば、サディズムは男の理智的批評的分析的究理的側面と結びつき、マゾヒズムは男の肉体的行動的情感的英雄的側面と結びつき易いことが察せられ、精神はサディズムの傾向をひそめ、肉体はマゾヒズムの傾向を内包すると考へられるであらう。もっと通俗的に云へば、サディズムは好奇心で、マゾヒズムは度胸なのである。
通例、サディズムは支配と統制と破壊の意志であり、マゾヒズムは忠誠と直接行動と自己破壊の傾向であるが、性愛独特の逆説により、同時にこの逆をも内包する。すなはちサディズムは容易にサーヴィスと献身へ転化し、マゾヒズムはしばしば、他人を道具として利用するエゴイズムを露呈する。それがサド・マゾヒズムと呼ばれて楯の両面ととらへられるのは、サディズムもマゾヒズムも、いづれも他人を道具視する「利用の性愛」であると同時に、一方又、いづれも、人間の自己放棄の根元的な二様のあらはれの一つだからである。私がかう説明することによって、政治学の領域に近づきつつあることを、すでに読者は察せられたであらう。サド・マゾヒズムこそは、人間の性愛の、もっとも政治学的分野なのである。
因みにナルシシズムの直接的な延長線上にマゾヒズムが位置することは他言を要しないが、もちろん、そのやうなナルシシズムは純肉体的ナルシシズムであって、「身を隠したナルシシズム」すはなち知的精神的社会的ナルシシズムは、往々サディズムへ傾くであらう。又、心理的マゾヒズムは、むしろナルシシズムの逆である。
・・・次号更新【All Japanese are perverse(三島由紀夫)・・・連載7】に続く