『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より

さまざまな暗号

---性研究家の高橋鐡氏から、こんな話を きいたことがある。

「”沼”というのは、ドイツ語で”女性器”を意味する言葉なのです」

すると「正三」にもなんらかの”暗号”があるにちがいない、と考えていたところに右の経歴---倉田氏は大正生まれの三重県出身だというから、「正三」の名が出来上がったとも考えられる。

「判事・倉田卓次」のキャリアをエリート・コースと呼んでいいのかどうかは、法曹界の事情に不案内な私にはわからない。

ただ、長野地裁飯田支部にくすぶっていた頃の氏がSM小説に没頭する心情だけは、理解できそうである。そして、当時から現在の地位を予期していたならば、おそらく『家畜人ヤプー』は生まれなかったことも確かであろう。

裁判官になる前の倉田氏については、意外な事実が判明した。

今年に入ってから、Nさんに倉田卓次氏のことを話す機会があった。Nさんというのは、『血と薔薇』に関係していた人物である。

そのNさんの口から、かくも重大な証言が得られるとは思いもよらなかった。

「倉田卓次さん? 倉田卓次さんなら、私の義兄にあたる遠藤麟一朗の遺稿集に寄稿してくれた方ですよ」

私は耳を疑った。「麟一郎」というのは他でもない『家畜人ヤプー』の主人公の名前ではないか。「朗」と「郎」の違いこそあれ、こんな珍しい名前はそうそうあるものではない。

遠藤麟一朗は、かつて吉行淳之介、いいだもも、栗田勇ら錚々たるメンバーを擁した同人誌『世代』の初代編集長をしていた男で、彼については、評論家の粕谷一希氏が『二十歳にして心朽ちたり』に書き留めている。この著書は、遠藤麟一朗を中心とする青春群像を描いた、青春の記念碑的作品とでもいうべきものなのである。

さらにいえば、『世代』の同人であった倉田正也氏は、倉田卓次氏の実弟。倉田氏と『ヤプー』を結びつける線は、想像以上に太いこともわかった。

ただあれほど己れの身分を隠したがった倉田氏が、主人公の名前を創作する際、ごく身近な人物から借用したとは、にわかには信じがたい気がしないでもない。

が、おそらく倉田氏にとっても、『家畜人ヤプー』は青春の記念碑的作品だったのではないか。だからこそ、友の名を借りるという”危険”を冒したのでもあろう。

ここに遠藤麟一朗氏の遺稿集がある。彼は五十三年二月十七日、胃潰瘍により死去した。『墓一つづつたまはれと言へ 遠藤麟一朗と献花 』と題したこの遺稿集(五十四年刊行)には、吉行淳之介、中村真一郎、加藤周一、衛藤藩吉、松川遊哉、大慈弥嘉久といった知名士が、故人ゆかりの人物として一文を寄せているが、その中に、倉田卓次氏のものもある。「判事・佐賀地方裁判所長兼家庭裁判所長」の肩書の下に書かれたその遺稿には、きわめて興味をそそられる箇所がいくつかあるのでご紹介しよう。

タイトルは『思い出の美少年』。遠藤麟一朗こと通称遠麟は、別掲の写真にあるごとく、美少年だったようだ。

<匂うような美少年だった。ノーブルな面長の顔立ちで肌が白く、バック台で汗をかかせたあとなど紅顔という形容がぴったりに頬の血色が映えて、少年のエロティシズム---誤解をおそれずはっきり言えば、ホモセクシュアルな意味での牽引力---を発散していた。こっちは十九歳になっていたが、向うは四修だから十六歳、まだにきびもなかったのではないかと思う。目が大きくよく動いて齧歯類の機敏さを連想させた。口許の歯並びが美しく、鼻も隆い。強いて難を言えば、これは彼自身も十分認めていたが、顔の造作全体が僅かに左右非対称だった。しかしそれは、私の見るところでは、彼の美貌を「女にしてもみまほしい」行儀良さから少し外れたものにし、かえって別な魅力を生じさ
せていた。>

右の引用から、「瀬部麟一朗」を想起する『ヤプー』の読者も少なくあるまい。それにしても、裁判官の文章とは思えぬ、みずみずしさに満ちた表現力ではないか。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載14:裸のおみ足の先を口の中に・・・】に続く