誰も名乗らない世界
『ヤプー』に登場するドリスの愛人に名前をつけるときも、彼は私に相談をもちかけてきた。
その手紙を読んでいる最中、たまたま机の上にレコードが置いてあって、「演奏・ドレイパア五重奏団」とある。
「ドレイパアがいいだろう」
と返事を書いてやると、彼はそのまま使ってくれたのである。
「アマディオ」の場合もそうだ。これは私が『奇譚クラブ』に短い原稿を書いたとき使ったペンネーム天泥盛英(アマディオ・モリエール)を彼が借用したもので、元をただせば、モーツァルトのファースト・ネームである。
一事が万事で、彼には「名付け」の才だけはないらしい。彼には娘さんも二人いるはずだが、その命名はどうしたのだろうか。それほど凝った名前でないことだけは、容易に想像できよう。
それにしても、彼はなぜ現在に至るまで、自分が『家畜人ヤプー』の作者であることをひた隠しに隠してきたのだろう。
もちろん、公職にあるから、という単純な答えは予想できる。しかし、果たしてそれだけの理由なのか。
この疑問を解く意味で、東京芸術大学作曲科教授であった矢代秋雄氏(故人)のケースが参考になるかもしれない。
矢代氏は、同じ『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』の寄稿家として、私と親交があった。酒を飲んだり、私の家にもしばしばやってきた。
女房がいると体裁悪がって、マゾの話はしたがらなかったが、いなくなるとその種の話もした。
しかし、彼はけっして本名を名乗ることなく、われわれ仲間の前では、亡くなるまでペンネームで通していた。
彼の気の遣いようも、沼=倉田氏の場合によく似ている。彼の教室に「カンノ」という助手格の女性が働いていて、原稿料などの宛先も「カンノ様方」。うちに電話をかけてくるときも、家族が電話口に出ると、彼は「カンノの代理の者です」という。そして私が代わって出ると、初めてペンネームを名乗るわけだ。だから、私の娘など、最後まで「カンノダイリ」という名前だと勘違いしていたくらいである。
あるとき、二人とも趣味が乗馬だということがわかり、彼はこういったものだ。
「すると、試合場やなんかでバッタリお目にかかることがあるかもしれない。本名もわかっちゃうけど、まあいいでしょう」
彼とは音楽談義などもよくたたかわしていたが、この時点ではまだ彼の正体はわかっていない。
見当がついたのは、彼が傘を忘れていったのがきっかけである。その傘に「矢代」と書いてあったのだ。
次に彼から電話がかかってきたとき、
「あなた、このあいだ傘を忘れてったよ」
といってやると、尋ねもしないのにこういったものだ。
「そうなんだよ。あれは借り物でね」
ところが、次にやってきたときもまた雨が降っていて、同じ「矢代」の傘を持っている。
「あなた、借りた傘いつまでも返さないんだねえ」
といってやったが、このときほぼ「矢代秋雄」だとわかったのである。
ただ、本人が名乗りたがらないのを無理に名乗らせることも出来ないから、我が家では、彼は死ぬまで「カンノダイリ」さんであった。
---彼の死は唐突にやってきた。
ある日の夕方、電話がかかってきて、翌日の夕方五時に横浜駅ジョイナス・ビルの『ネルソン』というバーで待ち合わせることになった。
ところがその約束の日、五時になっても現われない。遅れるときは断りの電話を寄越す男なのに、それもない。バーテンダーと話してるうちに八時半になったので、芸大に電話をしてみたところ、
「実は矢代先生、ちょっと大変なことになりました。とにかく、お宅の番号はこれこれですから、すぐにかけてみて下さい」
初めて彼の自宅に電話をしたら、あれは母親だったか、
「いえ、じつは今朝ほど亡くなりましたんですのよ」
亡くなった人をバーでいくら待っても来るわけはない。アルコールには目のない男ではあったが、紳士だった。
ちなみに、矢代氏のそちらの分野でのペンネームは「麻生保(あそうたもつ)」。音読みすると「マゾッホ」であった。
・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載16:「ヤプー」を完成させてほしい】に続く